ヒップホップカルチャーの代名詞、ブレイクダンス。正式名称は「ブレイキン」で、パリオリンピック2024で初採用され、一躍注目を集めた。日本は強豪国の一つで、けん引するShigekix(シゲキックス)(本名・半井重幸)さんは、世界に名だたるトップランナーだ。23歳で、すでに国際大会の優勝回数は50回以上。第一線で常に挑戦し続ける、Shigekixが“ヤバい”。
小学生の頃、偶然出会い見よう見まねでスタート
ブレイキンは1970年代、米国のニューヨーク、サウスブロンクス地区で生まれたダンススタイルだ。同地区はギャングなどの抗争が絶えず、争いを平和的に解決する手段として、音楽で競い合ったのが始まりといわれている。頭を軸に回るヘッドスピンなどのアクロバティックなパフォーマンスが印象的で、ブレイキンのダンスや音楽、ファッションがストリートカルチャーとして、若者を中心に広がっていった。
このブレイキンに、Shigekixさんが出合ったのはわずか7歳。最初に夢中になったのは4歳上の姉のAYANEさんだった。ほかのダンスやスポーツと違い、教えるスクールや団体がない中で、彼は偶然ブレイキンを知った。 「ブレイキンを始める前に、トランポリンや体操、英会話、スイミングなど、いくつも習い事をしていました。ダンススクールにも週1回のペースで通っていましたが、メインはトランポリンで、その練習場でブレイカー(ブレイキンのプレーヤー)の方とたまたま居合わせたのが始まりです。ダンススクールではオールジャンルのダンスを習っていましたが、ブレイキンはそのとき見たのが初めてで、衝撃を受けました。最初に姉がやり始めて、姉がやるなら僕も! と見よう見まねで始めて、そのブレイカーの方に『練習しに来る?』と誘われてハマっていきました」
だが、向かった先は教室ではなく屋外の広場。開始時間も通行人が減る午後9時と小学生には遅い時間帯だった。 「家から練習場所までは車で1時間ぐらいかかりました。練習して家に帰ってくるのは、だいたい午後11時過ぎ。もちろん翌日は学校ですが、送迎する両親は仕事です。この生活を高校3年生まで続けさせてくれたことには、両親に感謝してもしきれません」
JR難波駅近くの〝聖地〟で大人に混ざって腕を磨く
Shigekixさんが喜々として通った練習場所。そこは、J R難波駅そばの大阪シティエアターミナル(OCAT)の「ポンテ広場」で、世界的にも知られたブレイキンの〝聖地〟だ。広場には、国内外のトップクラスのブレイカーが毎夜集う。憧れのスターに会えて、一緒に練習ができる聖地で、Shigekixさんの持ち前の身体能力とセンスはメキメキと磨かれ、大会に出るとたちまち頭角を現した。そして、ブレイキンを始めてわずか2年、9歳で世界大会に進出し、11歳からフランス、香港、中国、オランダ……、ジュニアの世界大会を総なめにしていく。突如、世界に躍り出た日本のB-Boyは、周囲からどのように受け止められたのか。 「意外かもしれませんが、ブレイキン界はとてもアットホームで、国境や性別、年齢で線を引くことがありません。男女混合のチームバトルは、男女比の規定すらなく、対戦相手と比率をそろえなくてもいいのです。みんな同じカルチャーを愛する仲間。ブレイキンを通じて、世界中に仲間ができました」と笑顔を浮かべる。
ブレイキンの大会スタイルはいろいろあるが、個人戦(ソロ)やチーム戦では、交互にダンスを披露し、審査員がジャッジする。また、ブレイキンを含め、ストリートダンスの競技では流される音楽が事前に知らされないため、大会当日のDJの選曲、ときにスクラッチ(レコード盤を手でこする)などの即興に、瞬時に反応してダンスの構成を組み立てなければならない。〝選択〟と〝集中〟の中、高度な音楽性と独創性が求められる。その中で、Shigekixさんが得意とする、ブレイキンの構成要素の一つ「フリーズ」は圧巻。文字通り、音楽に合わせて動きを「止める」ではなく、「凍る」技の超高難度のバリエーションで、世界各地を沸かせた。
「ドン底」を乗り越え挑戦し続ける姿を見せる
向かう所敵なし。14歳でスポンサー契約してプロ入りしたShigekixさん。だが、16歳で壁にぶつかる。18年、金メダル獲得を期待されたブエノスアイレスユースオリンピックで、銅メダルに終わった。 「悔しさとともに、自分らしいブレイキンとは何か、追求すればするほど見えなくなって……。銅メダルも2年間しまったままでした」と語るほど苦悩し、ようやく前を向けた20年4月、地元・大阪から東京へ拠点を移した直後、コロナ禍に突入した。心身ともに孤立し、開催予定の大会もスポンサー契約もどうなるか分からない。「ドン底」の状況下で「それでも今できることを」と、ストイックに自主練に励み、体を鍛え直した。 「当時と同じことをやれと言われても無理です」と苦笑するが、その自己研鑽が実を結ぶ。同年、18歳で「JDSF第2回全日本ブレイキン選手権」で初優勝を飾り、さらに世界最高峰の1オン1ブレイキンバトル「Red Bull BC One World Final」では、史上最年少で優勝を手にする。世界大会で50回を超える優勝を手にした今も、「思い入れのある大会」と言い切り、ピンチをチャンスにできたプロセスを自信につなげた。ブレイキンは、単にダンスの“うまさ”ではなく、観客を魅了し、釘付けにする“ヤバさ”があるかどうか。「自分で決めた人生」と覚悟を固めたこと、心身ともにタフになったことで、“ヤバさ”に磨きがかかった。全日本ブレイキン選手権は3連覇、パリオリンピック2024では4位入賞。その悔しさをバネに、その後開催された、いくつもの国際大会で優勝し、25年2月の「JDSF第6回全日本ブレイキン選手権」では2年ぶりに王者に返り咲く。それも、姉のAYANEさんとの姉弟優勝という快挙を果たした。さらに日本発の世界初ダンスリーグ・Dリーグの24─25シーズンから、リーグ内唯一のブレイキンチーム「KOSÉ8ROCKS」のレギュラーダンサーに加わり、これまでとは違う、新たなダンスフィールドに挑んでいる。
ブレイキンの普及活動にも力を入れ、学校を訪ねては子どもたちにブレイキンの魅力、挑戦する大切さを伝える。17年からは地元の大阪狭山市特命大使も務める。 「今、パーパスとして掲げているのは、プレーヤーとして、人として挑戦し続ける姿を見せていくこと。それが、ブレイキンの魅力を多くの人に知ってもらえる、僕が最大限できることだと考えています。今、自分は何に挑戦しているか、意識しながら活動しています」 ダンスに生き方に、揺るぎない軸を持ち、笑顔で突き進む。
半井重幸(なからい しげゆき)
ブレイクダンサー
2002年大阪府生まれ。7歳でブレイキンを始める。14年ブレイクダンスの世界選手権「Chelles Battle Pro」U12部門での優勝を皮切りに、ジュニアの国際大会で次々と優勝。18年ブエノスアイレスユースオリンピックで銅メダルを獲得。20年「JDSF第2回全日本ブレイキン選手権」で日本一に、同年「Red Bull BC One World Final」で歴代最年少優勝。24年パリオリンピック4位入賞。25年「JDSF第6回全日本ブレイキン選手権」優勝。国際大会の優勝50回以上。KOSÉ 8ROCKSレギュラーダンサー
写真・矢口和也