世界フィギュアスケート選手権女子シングルで3連覇。この偉業を坂本花織さんは、20代前半で成し遂げた。氷上の堂々としたたたずまい、ダイナミックなジャンプと優雅な着氷。〝世界女王〟として、結果を出し続けてきた。しかし今年6月、ミラノ・コルティナ冬季五輪が開催される今シーズン限りで引退すると表明。いつもの笑顔の奥に潜む真意を尋ねた。
テレビドラマをきっかけに4歳からスケートを始める
名をはせるアスリートの多くが、幼少時から、そのスポーツを始める。フィギュアスケート選手の坂本花織さんもその一人だ。 「3歳の時にシンプルに『やりたい!』と言ったそうです。興味のありそうなものをいろいろ見せても、最後はフィギュアスケートを選ぶ。スケート靴を履いてコケても、泣くどころか笑う。そんな子だったそうです」
幼少の坂本さんが引かれた映像。それがNHK朝の連続テレビ小説『てるてる家族』だった。フィギュアスケート選手を目指す主人公の姉の姿を見たのをきっかけに、4歳でスケートを始めた。だが、「泳げて損はない」という母親の方針で水泳も本格的に習った。それも小学2年生まで水泳教室には週5回、スケート教室よりも多かったと振り返る。 「小2の時に水泳とスケート両方の先生から同時期に『どっちか一つに絞った方がいい』と言われました。今思えば、私の人生が決まる究極の二択です。スケートを選んだのは、子どもらしい理由で普通に息ができるから。スケートは構成を自由に組み合わせて滑ることができて、うまくいった時の達成感が大きい。そのうれしさと、2人の恩師との出会いも決め手となりました」
今も坂本さんを支える、中野園子さんとグレアム充子さんの両コーチ。なんと坂本さんが4歳で始めたスケート教室の先生で、以来、坂本さんのスケート人生を支え続けている。大会で坂本さんがスケートリンクに向かう時、キス・アンド・クライ(採点結果を待つ待機スペース)で結果を見守る時、いつも傍らにその姿がある。時に坂本さんの言動を中野コーチが嗜めるのも「ほほ笑ましい」「漫才みたい」と話題になるほどだ。 「中野先生は厳しく、グレアム先生は優しい。私にはアメとムチのバランスが丁度良いのですが、大会時にベストコンディションに持っていくペース配分がうまくできていないと、両コーチからダブルパンチでめちゃめちゃ怒られます」と肩をすくめて笑う。
極度の緊張を乗り越え世界のトップに立つ
2人のコーチの熱心な指導と、坂本さんの素直さにより、才能は小学校高学年から開花した。スケート選手の登竜門といわれる全日本フィギュアスケートノービス選手権の2012/13シーズンのノービス(11〜12歳対象)Aクラスで優勝。翌年の13年にはジュニアクラス(中高生対象)に移り、アジアフィギュア杯で優勝するなど国際大会でも早くから頭角を現した。
17年からのシニア時代の活躍は、周知の通りで、18年の平昌オリンピックは日本代表2枠の一つをつかみ取り、堂々たる6位入賞。22年、21歳で迎えた北京オリンピックでは個人で銅メダルを手にし、団体戦では日本フィギュア界史上初の銀メダル獲得に貢献した。24年には56年ぶりの世界選手権3連覇と、偉業を挙げれば切りがない。
大舞台でも物おじしない印象だが、極度の緊張を感じると言う。 「中でもオリンピックは特別で、平昌オリンピックではスケート人生で過去一の緊張に襲われて、胃腸炎になりました。2度目の北京でも緊張し過ぎて泣きそうでした」
しかし、リンクの上ではそんなそぶりさえみじんも見せない。 「緊張はつきもので、全く緊張しないと結果がいまひとつです。私なりに、大会当日の朝の公式練習を緊張のピークに持っていく、そして誰彼構わずとにかくしゃべり続ける。この二つで克服しています。北京の時は中野先生に『頑張ったら焼肉!』なんて言って。それが功を奏して、北京のショートプログラムは『ずっと踊っていたい』と思えるほど楽しく、ノーミスで滑れました。その時の記憶は、今でも鮮明に残っているほどです」
緊張を「必要なもの」とポジティブに捉え、小学生の頃から両コーチに言われている「練習は試合のつもり、試合は練習のつもり」の教えを今も大切にしているという。
