2024年元日に発災した能登半島地震、さらに同年9月に能登を襲った豪雨災害により能登半島の被災地の復旧・復興は遅々として進んでいないのが現状だ。一方で試練を乗り越え、再び能登半島に元気とにぎわいを取り戻そうと立ち上がる地域企業がある。さまざまな困難に負けず、能登の復興をけん引しようと頑張る被災地の企業・団体から話を聞いた。
谷﨑 裕(たにざき・ゆたか)
和倉温泉旅館協同組合理事長、和倉温泉観光協会副会長
[総論]能登全域の復興をけん引する 和倉温泉の創造的復興への挑戦
北陸随一の“海の温泉”として名をはせる石川県七尾市の和倉温泉。年間80万人超の宿泊客数を誇った同地は、能登半島地震で甚大な被害を受けながらも立ち上がりつつある。旅館の再建、観光の再開、コミュニティの復興に向けて地域で中心的な役割を担い、発災から現在まで現場の最前線で奔走してきた谷﨑裕さんに話を聞いた。
宿泊客を小学校へ誘導 ぎゅうぎゅう詰めの避難所
2024年1月1日に発災した能登半島地震において、和倉温泉には最大震度6強の激しい揺れが襲った。当時、同温泉全体で約2500人の宿泊予約があり、その6割が同地に到着していた。
―能登半島地震が発生した時、どのような状況でしたか。
谷﨑裕さん(以下、谷﨑) 地震発生は午後4時10分ごろですが、その数分前にも震度5程度の地震があり、「かなり大きいな」と思っていたら本震が襲ってきました。チェックインが始まって間もない時間帯だったので、和倉温泉全体で予約の約4割が未到着だったのは不幸中の幸いでしたが、突然の大きな揺れと同時に、宿泊客の携帯電話から一斉に津波警報が鳴り響いたことで、当旅館内は異様な空気に包まれました。
―宿泊客の避難は、どのように行ったのでしょうか。
谷﨑 各旅館で従業員が手分けをして、避難所に指定されている和倉小学校へ誘導を行いました。中には浴衣の人もいたので、避難後に防寒対策のために毛布や布団を運び込み、続いておにぎりを持っていきました。
―思ったよりスムーズに避難誘導ができたんですね。
谷﨑 そうですね。ただ、避難所は宿泊客の数まで想定しておらず、小学校の全ての教室を使ってもぎゅうぎゅう詰めの状態でした。それでも観光地特有の感覚なのか、地元住民が宿泊客を気遣う場面も見られ、大きなトラブルもなく一夜を過ごしました。
―一夜明けて、どうされたのでしょうか。
谷﨑 まず宿泊客の安否と所在を確認するためのチェックアウト作業を行いました。「金沢に移動したい」と希望する人も多かったので、各旅館がバスを出してピストン輸送を行いましたが、道路の寸断や渋滞で、通常1時間ちょっとの距離に3時間以上もかかりました。この経験から、災害時には地域全体で輸送体制を組むべきだと強く感じました。
「創造的復興ビジョン」の策定を発災翌月からスタート
地震発生時、避難誘導や安全確保が迅速に行われたことで、宿泊客や従業員などへの人的被害は確認されなかった。一方、建物やインフラへの被害は甚大だった。
―和倉温泉地域では、具体的にどのような被害がありましたか。
谷﨑 建物の損壊、温泉配管の破断、そして七尾湾の護岸が崩壊しました。ライフラインでは幸い電気は止まらず、ガスも比較的早期に復旧したんですが、水道管が寸断された影響で約3カ月間断水しました。それによりほとんどの旅館が休業を余儀なくされました。
―旅館の再開に向けて、どのようなことから着手されましたか。
谷﨑 発災翌月から、和倉温泉を担ってきた経営者による組織委員会が、次世代を担う若手経営者によるワーキング委員会をサポートする形で、「『和倉温泉』創造的復興ビジョン」の策定に乗り出しました。2040年を目標に景観、なりわい、共有、連携、生活、安全の六つを基本項目とし、さまざまな事業アイデアを出していきました。
―和倉温泉をどのように再生していくのか、計画を立てたわけですね。
谷﨑 そうです。特に私が注力したのは約2・5㎞に及ぶ護岸の再整備です。この辺りの海岸は埋め立て地なので、護岸の再建はそこに立ち並ぶ旅館の再開に不可欠です。ただ、国、県、市、民間と所有者が複雑だったため、当初は公共投資ができないと言われましたが、民間所有部分を国に寄付することで国が一括して工事ができることになりました。
―損壊した建物が残る中、護岸工事はどのように進められたのでしょうか。
谷﨑 当初、崩れた護岸を元の高さまで復旧するには5~6年かかると言われました。約2000人の雇用を守るためにももっと早くしてほしいと掛け合って、元の護岸の外側に新たな道を造成する全国的にも珍しい工法を採用し、26年度中の完了を目指して工事が進行中です。
