報光社
島根県出雲市
官公庁からの受注で発展
島根県北東部、西には出雲大社があり、東は宍道湖と接する出雲市平田町に、印刷会社の報光社はある。明治23(1890)年、この地の出身で熱心な仏教徒だった初代の原権三郎が、隣の松江市で仏教の経本などを印刷する報光社活版所を創業したのが始まりである。日本では明治時代初期から活版印刷の普及が始まっており、報光社は当時最新鋭の活版印刷機を導入していた。活版印刷とは、活字を組み合わせて作った版を使って印刷する方法である。
「社名の『報光』は創業者の菩提寺の住職による命名で、“仏さまの後光に報いる”という意味が込められているそうです。会社があった松江市は県庁所在地であることから、官公庁からの刊行物をはじめ、店舗のチラシなどを多く受注して発展していきました」と、六代目で社長の原伸雄さんは言う。
初代権三郎は政治の道に進み、明治22年に当時の平田町の初代町長に当選、31年には島根県議会議員となった。家業は長男の保定が二代目として後を継いだが、大正8(1919)年に権三郎が亡くなると、その翌年には保定も40歳という若さで急死してしまう。後に残った保定の妻カウが、のちに三代目となる幼子の良宗を育てながら、会社を続けていった。
「戦時中は国の企業整備政策により、県内の印刷会社と合併して島根合同印刷となりました。そして戦後、31歳となっていた三代目の良宗が、地元である平田市(現・出雲市平田町)に戻って事業を再開したのです」
代が替わっても積極的な拡大
三代目の良宗は“攻めの姿勢”を信条とし、積極的に事業を拡大していった。昭和31(1956)年に大阪の印刷工場を買い取り報光社印刷所を創業、44年には本社工場を増改築、市内の他社に先駆けてオフセット印刷設備を導入した。オフセット印刷とは、凹凸のない薄いアルミ製の版を使って印刷する、今も一般的に使われている印刷方式である。
「弊社が活版印刷で長年培ってきた技術を生かした文字組版(文字の配置による紙面構成)の美しさは高く評価され、“文字組版の報光社”として全国に知られるようになりました。また、53年には県の教育委員会の依頼で『島根県近代教育史』全7巻を、56年には日本初の『ペルシア語辞典』を刊行するなど、大作にも取り組んできました」と伸雄さんは胸を張る。
三代目は事業拡大とともに、初代と同じ政治の道も歩んだ。30年に市議に当選、34年には県議に当選して2期務め、42年には平田市長選に当選して市長を5期20年務めるなど、地域の発展に貢献した。
「三代目が市長になると、妻の利津子が四代目として社長となりました。それからも60年に県内で初めて大型オフセットカラー印刷機、61年に当時最先端の文字組版システムだった電算写植も導入し、63年には東京に営業拠点を設けて、「阪神淡路大震災報告書全13巻」などを受注しました。平成5(1993)年に私の父である五代目の幹雄が社長になると、パソコンで印刷物のデザインができるDTPシステムも導入しています」
このように、社長が代替わりしても“攻めの姿勢”は受け継がれていったのだった。
顧客のニーズをつくり出す
現在社長を務める伸雄さんは、子どもの頃から印刷工場のインクの匂いの中で育ってきたという。
「大学卒業後、東京の情報通信会社に勤めており、当時は会社に戻るつもりはありませんでした。でも、父が東京に出張に来るたびに話し合い、ここまで長く続いてきた会社をなんとかしないといけないという考えに変わり、最終的には戻ってきました」と振り返る。
近年は経済環境の変化による広告費の削減や書籍の電子化、インターネットの普及などで印刷業界全体で受注が減少している。それを克服するため、伸雄さんは新たな取り組みとして地元産品の販売や紹介を代行するインターネット通販サイト「出雲神話本舗」を始めた。
「これはネットを活用したビジネスに関するセミナーがきっかけです。お客さまの商品が売れれば、その商品のパッケージや説明書を印刷する必要が出てくるので、それを私たちが請け負うという仕組みです。また、会社案内パンフレットとホームページ制作を一体にした商品も始めました。これによりお客さまの印刷物のニーズを自分たちでつくり出しているのです」
これからは印刷業という本業をしっかり続けながら、時代に合った新たな業務を行い、顧客のニーズを掘り起こしていく姿勢が大切だと伸雄さんは言う。報光社の“攻めの姿勢”のDNAは、しっかりと受け継がれている。
プロフィール
社名:株式会社報光社(ほうこうしゃ)
所在地:島根県出雲市平田町993
電話:0853-63-3939
代表者:原伸雄 代表取締役
創業:明治23(1890)年
従業員:52人(役員、パート含む)
※月刊石垣2019年6月号に掲載された記事です。
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