藤仲興産
宮崎県延岡市
最初の倒産を乗り越えて
宮崎県北部の延岡市で不動産事業と林業を営む藤仲興産は、江戸時代末期の文久3(1863)年に初代・谷仲吉が荒物商を開業したことから始まった。荒物とは家庭で使う雑貨類のことである。
「近江(現在の滋賀県)から延岡に移住してきた先祖が『藤屋』の屋号で商売を始めたのが最初なのですが、その二代目の弟である仲吉が分家して始めた『藤仲』の開業を当社の創業年としています。分家の際に仲吉は、本家から家屋と資本金500両を譲り受け、それを元手に商売を始め、のちに山や海の産物を取り扱う交易事業に乗り出しました。本家のほうは明治時代に鉱山経営に失敗し、なくなりました」と四代目・谷仲吉さんは語る。谷家では代々、後を継いだ当主が仲吉を襲名している。
初代・仲吉は商売の才覚を発揮して事業を拡大していき、慶応2(1866)年には延岡と兵庫を結ぶ廻船業(貨物船を使った交易)を始める。千石船で地元の一次産品を上方に運び、帰りは上方の品物を買って帰るという、近江商人が得意とする「のこぎり商法」を行っていった。
「しかし、初代は40代のころに一度倒産しています。荷物を積んだ船が台風で沈没し、大損害を被ったのです。それでも初代はくじけることなく、大阪の商家に住み込みで丁稚(でっち)奉公をしました。そして、その働きぶりと才覚を商家の主人に見込まれ、資金を与えてもらい再起することができました」
そこから初代・仲吉は地元に戻り、破竹の勢いで商売を発展させていき、巨万の富を築いていった。
事業改革で収益性を高める
初代・仲吉は交易で稼いだお金で地元の農地や山林を購入し、二代目・仲吉に後を譲ると、自身は銀行設立に奔走し、延岡銀行の初代頭取を務めるなど、地元経済への貢献を続けていった。
「二代目・仲吉は初代が遺した農地や山林をさらに拡大させて宮崎県で最大の地主になり、それが昭和の終戦まで続きました。しかし、GHQによる農地解放と財閥解体で、財産の9割を失ってしまいました。残った1割は山林と市内の宅地で、今の事業はそれらが元になっていますが、戦後すぐに始めた商売は失敗だらけで、士族の商法というか、地主が商売に手を出してもうまくいきませんでした」と四代目・谷仲吉さんは語る。
谷さんは昭和46年に会社に入社すると四代目として後を継ぎ、事業の大規模な改革に乗り出した。「不良事業は切り、不動産事業と林業に特化することにしたのですが、事業を切ることは人を切るということでしたから、それが心理的に一番大変でした」
谷さんは不動産開発業を進めるために、それまで所有していた貸付宅地を2種類に分け、自社での再開発が見込める土地は借地人から借地権を買い取り、見込めない土地は借地人に評価額より安い価格で売却していった。そして、買い取った土地には新しい建物を建てて賃貸に出すことで、収益性の高い不動産事業にしていった。
一方の林業のほうは、所有する山で木を育てて伐採する育林業をメインとしている。いま山に植えられている木の中でもっとも古いものは80年くらいになるという。
百年かけて木を育てる
今から25年前、老朽化した谷家の旧家を取り壊すことになった。その際、敷地内にある3つの蔵を調査したところ、中は文字どおり〝大判小判がザックザク〟だった。江戸時代以前のものを含む大判金貨が3枚に小判が265枚、そのほかにも多くの古い貨幣や美術品が見つかったのだ。
「古い蔵を取り壊すと聞いて東京国立博物館の方々が来て調査したら、合計3万点もの古い品々が見つかりました。私は蔵に何が入っているのかまったく知りませんでした。蔵はほとんど開けることがなく、私が後を継いだときにも鍵がどこにあるのか分からなかったほどですから」と谷さんは笑う。
発見された品々は近世の経済活動を知る第一級の資料として15年ほどかけて鑑定され、歴史的・文化的価値のある約8千点が九州国立博物館に寄託されている。
「長く事業を続けてなんとか生き残ってきたから、こういう蔵を残すことができました。林業は長伐期といって、木を百年かけて育ててから伐採します。高級木材が採れますが、その間は収入がなく費用もかかるので不動産収入で補っていく。優良な木材をつくっていくために、これからも百年先を考えたビジネスを行っていきます」
短期的利益を追うのではなく、長期的視点で物事を考える。先祖が近江を出てから150年近くがたった今でも、藤仲興産には近江商人の考え方が息づいている。
プロフィール
社名:藤仲興産株式会社
所在地:宮崎県延岡市北小路11-1
電話:0982-32-1111
HP:http://fujinaka-kousan.co.jp/
代表者:谷 仲吉 代表取締役社長
創業:文久3(1863)年
従業員:12名(嘱託社員を含む)
※月刊石垣2018年2月号に掲載された記事です。
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