但馬屋老舗
大分県竹田市
時代の荒波も乗り越えて
歌曲『荒城の月』を作曲した滝廉太郎が少年時代に暮らした大分県竹田市に、県内でもっとも古い和菓子店・但馬屋老舗(ろうほ)はある。創業は文化元(1804)年。初代但馬屋幸助が、当時この地を治めていた岡藩の御用菓子司として店を構えたのが始まりだ。
「初代幸助は但馬国(今の兵庫県北部)出身で、京都・伏見の老舗和菓子屋で修業をしていました。あるとき和菓子屋の当主が有馬温泉で岡藩の藩士と出会い、藩で和菓子職人を必要としている話を聞いたことから幸助が選ばれ、岡藩に送られてきたのです」と、但馬屋六代目の板井良助さんは言う。
当時の岡藩藩主は、参勤交代の途中に奈良の春日大社で食べた餅菓子「火打焼」の味が忘れられず、早速幸助にそれをつくるよう命じた。幸助が藩主の言葉を手がかりにつくったところ、藩主はこれをとても気に入り、奈良の三笠山と春日野にちなんで「三笠野(みかさの)」という名前が付けられたという。
「三代目の時代、明治の廃藩置県で藩主や武家といった大きな顧客を失いました。それから西南の役が起こり、竹田でも戦いが繰り広げられ、まちは焼け、当店も燃えてしまいました。持ち出せたのは位牌やのれんなどだけ。それから1年は再建のために大変苦労をしたようです」
木材や大工が不足する中、寺から木材の提供を受けるなどして焼け跡に店を建て直すことができた。そして、その後も精進を続け、全国的な菓子品評会で表彰を受けるようになるなど、家業は安定していくようになっていった。
地域の顔となる和菓子屋に
日露戦争の際には四代目が、傷病兵のために栄養価の高い菓子を考案し、陸軍病院まで届けていた。しかし、太平洋戦争時は休業せざるを得ず、五代目が店を再開できたのは終戦の2年後だった。
「当時は別府に進駐軍が駐屯していて、そこから闇物資で出てきたグラニュー糖を、着物や服を売ったお金で仕入れていました。卵と小麦粉、小豆は近くで買えましたが、砂糖だけは簡単には手に入らなかった。あんこに入れる水あめもモヤシからつくるため、菓子工場の片隅でモヤシをつくっていました。それでつくれるのは『三笠野』くらいでしたが、両親は苦労を重ねながらも、創業以来の和菓子で店を再開できたわけです」と板井さんは誇らしげに語る。
板井さんの父である五代目は、家業の傍ら、地元消防団の活動や商工会議所の設立準備などにも奔走していたが、49歳で病に倒れた。板井さんが15歳のときだった。
「父は5年間の闘病ののち、私が大学生のときに亡くなりました。私はもともと後を継ぐつもりはなく、海外で仕事をしたかったので、大学で英語を専攻していました。父が亡くなった後、私は地方の和菓子屋を見て回ったのですが、小さな和菓子屋が地域の顔として城下町の歴史や文化を背負っていると感じました。そして、当店が目指すものはこれだと思い、店を継ぐことを決めたのです」
板井さんは大学を卒業後、専門学校や菓子店で菓子づくりを習学。23歳で六代目となった。
新たにつくったものが伝統に
但馬屋老舗の和菓子はすべて手づくりなので、量産できない。そのため、かつてはデパートからの出店の誘いも断ってきたという。
「竹田へ多くのお客さまに来ていただき、当店の和菓子を味わっていただきたいとの思いでやってきました。欲が出て利益を上げるためにそろばんを弾き始めると、いいものがつくれなくなってしまいますから」と、板井さんは言う。
板井さんが継いだころから、自動車が急速に普及し始めた。車に乗って、名水で知られる竹田に湧き水をくみに来る人が増え、店にも多くの客が来るようになった。だが、昔からの得意客が年を取って出かけなくなり、地元の人口も減ったため、平成7年をピークに売り上げは微減が続いた。
「そんなときに大分市のデパートからお誘いがあり、出店を決めました。毎日大分の店に竹田の水を運んで、菓子とともにお茶やコーヒーを出しています。昔からのお客さまに『最近は竹田まで買いに行けなくなったから、こっちに店を出してくれてよかった』と言われたときはうれしかったですね」
そして、伝統的な商品だけでなく、現代人の好みに合う新たな和菓子を開発することも忘れてはいけないと板井さんは強調する。 「新たな試みの中からいいものだけが残った結果が『伝統』であり、当店のような老舗が生き残ってこられたのは、常に新しいものをつくってきたからです」
伝統は革新の連続なり。但馬屋老舗はこの言葉を胸に、新たな和菓子づくりに励んでいる。
プロフィール
社名:有限会社 但馬屋老舗
所在地:大分県竹田市竹田町40
電話:0974-63-1811
HP:https://tajimaya-roho.co.jp/
代表者:代表取締役 板井良助
創業:文化元(1804)年
従業員:約47名
※月刊石垣2017年4月号に掲載された記事です。
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