平成27年、東京大学宇宙線研究所の所長・梶田隆章さんは、ニュートリノが質量を持つことを示す「ニュートリノ振動」を発見した業績でノーベル物理学賞を受賞した。これは、梶田さんが師匠と仰ぎ、14年に同賞を受賞した小柴昌俊さんの研究を受け継ぐものだ。ノーベル賞受賞後の変化や手応え、今研究者が抱える課題などを梶田さんに伺った。
ノーベル賞受賞は子弟3代で成し遂げた
ノーベル賞受賞者の幼少期といえば、子どものころから大器の片鱗をのぞかせる天才少年を想像するかもしれない。しかし梶田さんは、どこにでもいるごく普通の子どもだったと謙遜する。
「子どものころは静かで目立たないタイプでした。さしたる夢もなく、小学校の文集で将来の夢を書かされても答えが出ず、適当にでっちあげた記憶があります」
転機が訪れたのは、昭和56年に東京大学大学院に進学し、小柴昌俊さんの研究室に入ったことだった。
「大学院を受験するときに、どの研究室を希望するかあらかじめ意思表示をします。当時は今日のようにはインターネットが普及していない時代でしたので、先生が書いた1~2行の短い紹介文を頼りに研究室を選ばなくてはいけませんでした。今思うと不思議な巡り合わせですね。当時小柴先生が書いた説明文には『カミオカンデ』について一言も記されていませんでした。私は、かねてから興味があった素粒子物理学の実験ができそうだという理由で小柴研究室を選んだのです」
カミオカンデとは、岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下1000mに位置する巨大な宇宙素粒子観測装置だ。梶田さんが小柴研究室に入ったときは、まだ建設に着手したばかりの状況で、約2年後の58年に完成した。若き梶田さんが、カミオカンデの建設に一から携わることができたのは、大きな学びであった。このカミオカンデの観測で、小柴さんは約16万光年離れた超新星からのニュートリノを世界で初めて捉え、ノーベル賞を受賞することとなる。師匠の研究をさらに深めるべく建設されたのが、カミオカンデの後継にあたるスーパーカミオカンデだ。
建設を主導したのは小柴さんの愛(まな)弟子で、梶田さんの兄弟子にあたる戸塚洋二さんだった。梶田さんは〝兄〟が平成8年に完成させたスーパーカミオカンデを用いて観測し、ニュートリノが質量を持つことを示す「ニュートリノ振動」を発見した。戸塚さんは若くして他界してしまったが、小柴さん、梶田さんのノーベル賞受賞は、師弟3代で成し遂げた偉業だった。
素粒子の標準理論を超える大発見
「私が博士号を取得したばかりのころ、たまたまカミオカンデで観測された大気ニュートリノの成分が予想より随分少ないことに気が付きました。もしかしたら重要な問題かもしれないと思い、それ以来問題解決に取り組んできました」
しかし梶田さんの発見に対し、昭和63年当時の世間は大変ヒステリックに「そんなことは決してありえない!」との見解が大半だったという。
「これにはカチンときました。けれど私たちのチームが間違っているという感覚はありませんでしたので、世の中を納得させるには時間が掛かるのかなと、楽観的に受け止めていました。細かいことを気にしない性格だからこそ、チームが進むべき道を信じられたのかもしれません」
最終的に梶田さんの発見が正式に認められたのは、それから10年後のことだった。平成10年に開かれた国際学会という公式の場で「ニュートリノ振動」について発表し、会場でスタンディングオベーションが巻き起こったという。素粒子物理学の定説を超える世紀の発見であると世界中の研究者を驚かせた。「ノーベル賞受賞は時間の問題である」そんな気運が高まるほど大きな成果だった。
ノーベル賞受賞後に起きた大きな変化は、多くの人が梶田さんの言葉に耳を傾けてくれるようになったことだという。
研究には莫大な資金を要する。こと基礎科学研究においては、国による国立大学の運営費交付金や科学研究費補助金に支えられている。ここ数年、大学の運営費交付金は減少傾向にあり、基礎科学研究を志す者としては厳しい状況になっているという。「社会に向けて、自分たちの研究について解説する機会が増えたのはありがたいことです。まずは一人でも多くの方に基礎科学研究についてご理解いただくことが大切だと考えています」
宇宙起源の謎にいよいよ近付いてきた
今後、日本人のノーベル賞受賞者は増え続けるのだろうか。梶田さんは疑問符を付ける。
「現在、受賞ラッシュが起こっているのは、1980(昭和55)年〜90(平成2)年代の業績があってこそ。当時の日本は元気がよく、社会全体に余裕がありました。研究者は時には常識的にありえない仮説を立て、それについてゆったりと思いをはせる時間がありました。学者社会においては、そういう余裕がないと、非常に大きいブレークスルー(進歩や前進)は生まれにくいと思います」
ところが、今はいかに効率よく働くかという観点にフォーカスされがちだ。無駄なことに時間も金も使わない代わりに、どんどんスケールが小さくなっている。
「このままですと、日本が世界規模で科学的な貢献を続けていくとは楽観視できないと思います」
そう言って表情を曇らせた。
梶田さんはまた、博士課程に進む若者が減少傾向にあることも懸念している。
「私どもの時代に比べ、大学院を出てから研究者になるための道が大変狭くなっています。例えば2年の任期で働くということは、研究に没頭できるのはわずか1年で、残り1年は就職活動に励まなくてはなりません」
この状況を少しでも改善するべく梶田さんは『宇宙線研究所若手支援基金』を立ち上げた。同研究所が研究所として採用する研究員は毎年4名程度。そのうちの1名をさらに1年間延長して雇用し待遇も良くする。この制度を今年から開始する。
現在は、研究の軸をニュートリノから重力波に移行しているという梶田さん。神岡の地下で新たに建設中の重力波望遠鏡「KAGRA」の研究代表者として活動している。向こう3年をめどに、重力波を直接観測し、世界の研究仲間と共に重力波天文学を発展させることを目指しているという。
「研究には膨大な時間が掛かります。何世代とこの研究を引き継ぎ、できる限り宇宙の謎を解明していければと思っています」
その日を夢見て、今この瞬間も研究は続いている。
梶田隆章(かじた・たかあき)
東京大学特別栄誉教授/宇宙線研究所所長
埼玉県東松山市出身。昭和56年、埼玉大学理学部物理学科卒業、61年に東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。小柴昌俊さん(平成14年ノーベル物理学賞受賞)、戸塚洋二さんの指導のもと、カミオカンデ実験にあたる。その後、宇宙線研究所教授などを歴任し、平成10年大気ニュートリノを観測することで、ニュートリノに質量があることを提唱し、27年ノーベル物理学賞を受賞
写真・後藤さくら
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