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あの人を訪ねたい 山本寛斎

「好きって苦しくて楽しい。だから生涯続けられるんです」

世界的デザイナーとして知られる山本寛斎さんのもう一つの顔は、イベントプロデューサーだ。これまで世界各国で「KANSAI SUPER SHOW」を開催し、累計360万人を動員してきた。寛斎ブランド創設50周年の節目の年となる令和元年に手掛けたのは、6月開催の「日本元気プロジェクト2019『スーパーエネルギー!!』」(東京•六本木)。寛斎さんがイベントを通して実現させたい野望、表現者としての素顔に迫る。

前例のないことをして人を猛烈に喜ばせたい

取材は、山本寛斎さんの事務所がある都内の高層ビルで行われた。にこやかな表情で現れた寛斎さんは、「どうぞ、まずはこちらにおいでください」と窓際に招いた。大きな窓から見える風景は、東京の高層ビル群やレインボーブリッジ、天気の良い日は富士山が拝めるそうだ。「日本元気プロジェクト2019のポスターに描いたアートは、この景観から想起しました」と寛斎さん。「東京の空中で、日々いろいろなドラマが起こり、雲があるあの辺りに龍が浮かんでいて……」。身振り手振りで創作の背景を説明する、その語り口は実直でありながら、どこか浮世離れしている。口調は75歳という年齢を感じさせない。

これまで寛斎さんは、「前例にないことで人を猛烈に喜ばせる」ことをモットーに創作活動を続けてきた。デザイナーとして世界デビューしたのは1971年、27歳の時だった。日本人として初めてロンドンでファッションショーを開催。日本文化とアバンギャルド(革新的)なデザインを融合させた寛斎テイストは評判を呼び、地元ファッション誌は、そのデビュー・コレクションを表紙に起用し「トーキョー大爆発」と報じた。「世界では、日本の文化を武器にしないと戦うことはできません」と言う寛斎さんのデザインは、引き抜き、ぶっかえりなどの歌舞伎の技法をショーに用いるといった類いまれな演出の才能と相まって、ファッション界に大きな衝撃を与えた。そして、世界的ロックスターのデヴィッド・ボウイのツアー衣装を手掛けることで、“KANSAI”の名はさらに大きくなっていく。

「世界で一つ」になるため49歳で新たな境地へ

はたから見れば、順風満帆な経歴に見える。しかし、本人は、40代後半で、自身のキャリアについて不安と物足りなさを感じていたという。それまで、自分にしかないデザイン発想で世界を喜ばせてきたという自負があった。しかし、「この世から私が消えたとして、世の中はどんな影響を受けるのだろうか」という不安を拭い去ることはできなかった。世界で一つしかない表現を目指すなら、デザイン力に加えて、これまでのファッションショーで培ってきた「演出力」を掛け合わせてみてはどうか。寛斎さんにとって、もはや主役は服ではなく人だった。オリンピックの開会式のように多様なトップランナーが結集し、エネルギーが爆発する新たな表現に挑もうと覚悟を決めた。

こうして49歳で手掛けたのが、93年、「ハロー!ロシア」(モスクワ・赤の広場)だった。ソ連崩壊から2年、日露の状況は、北方領土や、第二次世界大戦後のシベリア抑留の問題を抱えていた。日本からは冷ややかなまなざしを向けられ、「やめておけ」と反対する者もいたという。「けれど私は、日露の懸け橋となる文化交流が実現できると信じていました」。結果、動員数は12万人に上り、開催費用は約2億円。その2億円の資金調達は、“寛斎ブランド”をフル活用すればスムーズに獲得できたのだろうか。「いいえ、私にはツテがありませんでしたし、資金調達の経験すらありませんでした。全て自分で、地道にやりました」と苦笑いする。毎朝新聞3紙を開いて広告面積が大きい企業から何社か絞り込み、そこから企業研究をして、「『なぜ御社に支援をお願いするのか』を、誠心誠意、手紙にしたためました」と言う。当時の手紙を写真で見せてもらった。それは1、2行ごとにインクの色を変えて、多様な言語でカラフルに書かれた楽しげな手紙だった。聞けば、一通あたり2時間はかかる、骨が折れる作業だったとのこと。

「毎朝4時に起きて、雨の日も嵐の日も欠かさず手紙を書きました。二日酔いなどありえませんので、体調管理をしっかりして書き続けました」

どんな仕事にも必然性がある、と寛斎さんは言う。イベントプロデュース事業から、教育支援に裾野を広げたのも、必然だったのかもしれない。

95年、20万人を動員した「ハロー!ベトナム」の視察のためホーチミン、ハノイの奥地を訪れ、そこで、日本の留袖に刺繍する少女たちに出会った。「見本もないのに自由自在に縫っていて、すごい才能だと感心しました」。しかし当時、ベトナムにはファッションの学校はなかった。すぐに、学校の設立を思い立ち、現地の芸術大学にファッション科を併設するために寄付を行った。その後もスーパーショーを世界各地で開催し、2000年からは、自らを「応援団」と名乗り、日本を元気にする応援活動に情熱を注いでいる。

いくぞ!祭りだ! 日本を元気にする応援団として

こうして、世界各地で国際交流イベントを手掛けてきた寛斎さんが総合プロデュースしたのが、6月開催の「日本元気プロジェクト」だ。日本の未来を見据え、人のエネルギーを集結させ、元気を創出することを目的とするイベントだという。また、ブランド50周年の節目ということもあり、情熱を注いでいるのが「国際文化交流プロジェクト」。明日のデザイナーを夢見る日本とイギリスの学生に向けて、文化交流と作品発表の場を提供するプロジェクトであり、本記事の取材の前にも、寛斎さんは20代の学生に直接指導を行っていた。講演会のテーマは、人生をどう生き抜くか。答えはシンプルで、“好きなことをする”だ。

「私はデザインをはじめとする創作が大好きです。けれどいくら好きなことでも、苦しい局面は必ずやってきます。どうぞ笑ってほしいのですが、私が最も苦手とするのは手紙を書くことなんです。書いていると苦しかったし、心が折れそうになることもありました。それでもくじけなかったのは、その先に喜ばしい時間が必ずやってくると信じていたからです」。寛斎さんは、好きなことをして飢え死にした人を見たことがないそうだ。「どんなデザイナーだって、カメラマンだって、好きであれば鍛錬し、長く続けられるはず」。そう言って、ふと窓の外を眺める寛斎さん。「日本では、前例がないからダメと言われがちです。けれど未来に前例はありますか。好きなら、自分の道を信じて貫き通すまで。いや、私も50年もよくやってきたものだと半分あきれます。それには猛烈な準備と情熱が必要でしたから。それでもきっと死ぬまで続けるでしょう。好きだからです」

今年3月、寛斎さんは75歳にして北極圏に赴いた。まだまだ好奇心は尽きることがない。

山本 寛斎(やまもと・かんさい)

デザイナー/プロデューサー

1944年生まれ。71年、ロンドンにおいて日本人として初めてファッションショーを開催。74年から92年までパリ・ニューヨーク・東京コレクションに参加し、世界的デザイナーとしての地位を築く。93年以降は、ファッションデザイナーの枠を超え、スペクタクルなライブイベントのプロデューサーとして活躍。2016年から18年まで熊本県山鹿市の「山鹿灯籠まつり」アドバイザーを務めるなど、幅広いジャンルで活躍中。

写真・後藤さくら

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