『おしん』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』など数々のヒット作を世に送り出してきた脚本家の橋田壽賀子さん。大正、昭和、平成、そして令和を迎え、今も『渡る世間〜』の脚本に筆を走らせる。不遇を乗り越え、チャンスをつかみ、家事一切もこなしてきた。大成の陰には、置かれた環境を言い訳にしない、不屈の精神があった。
親から反対されながらもわが道を貫く
ヒットメーカー、橋田壽賀子さんの作品の主流はホームドラマで、「家族」をテーマにしたものが多い。それは自身の生い立ちと決して無縁ではない。橋田さんが生まれたのは1925年5月、場所は朝鮮の京城、今のソウルだ。一人娘で、子ども心に両親の仲は決していいものではないと感じ取っていた。そして母親の溺愛による過保護、過干渉が、橋田さんの人生で幾度も障壁になる。
高等女学校卒業後に、そして日本女子大学卒業後に、親が決めた相手との結婚というレールが用意され、橋田さんはそのたびに突っぱねては、わが道を切り開いた。
「女学校の卒論で新古今和歌集における『つ』と『む』の研究をしました。その指導をしてくださったのが国語学者の大野晋さんで、私も国語学者になりたいと、東大の国文科を受験しました。落ちましたけれどね」と苦笑する。
代わりに早稲田大学の国文科に進学すると歌舞伎に魅せられ、演劇部で“老婆”の役が大好評で、演劇に興味が湧いて芸術科に転科する。だが、学生時代、実家を飛び出し、伯母のもとに居候していた橋田さんは、生計を立てる方法を常に探していた。そこへ舞い込んだのが、松竹の大船撮影所脚本養成所の研修生募集の話だった。当時終戦後の娯楽として映画業界は活況を呈し、1000人を超える応募があったという。半年かけて25人、1年かけて6人に絞られ、その一人に橋田さんが選ばれ、松竹初の女性社員誕生と脚光を浴びた。だが、そこへ母親から松竹へ連絡が入る。
「娘を不合格にしてください」
出会いを通じて公私ともに急展開へ
一人娘で家の跡継ぎだからというのがその理由だが、橋田さんの方も、不合格にしないでほしいと懇願する。折衷案で実家のある大阪に近い京都撮影所の配属になるが、実家をわずか2日で飛び出し、下宿して撮影所に通った。大学も京都からはとても通えず中退し、退路は断たれることになる。
「当時の映画業界は、まさに男の世界。女のくせにと面と向かって言われたことも一度や二度じゃありません。脚本の助手をしても、作品に自分の名前は出ませんし、付いた脚本家の先生の家で小間使いのような仕事ばかりさせられました。嫌で嫌で仕方なくて、大船撮影所に戻りたいとお願いし続けながらも3年間は耐えました」
新人の待遇の悪さに輪をかけて女性である橋田さんへの風当たりは相当強かったようだ。だが、新人を大事にしてくれる先輩もいた。その先輩に目をかけてもらえ、52年に映画『郷愁』の脚本を初めて単独で執筆する。だが、10年勤めて手掛けられた脚本は2〜3本、揚げ句には秘書課への異動を命じられ、橋田さんは独立を決意する。
「これからはテレビの時代だと感じて、脚本をテレビ局に売り込んだのですが、さっぱりでした。でも、少女小説や写真小説の原作を書いて生計を立てつつ、お金をためては旅行しました。1年で200泊したこともあります。ユースホステルを転々とする貧乏旅行です。つらいときこそ、その時間をどう使うかが大事。私はこのとき、いろいろな人生を垣間見ました」
これが後の脚本の糧になったのは言うまでもない。64年、TBSの敏腕プロデューサー、石井ふく子さんと組んだ東芝日曜劇場『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本デビューを飾り、同年『愛と死をみつめて』で名を上げる。
「『愛と死をみつめて』は、1時間枠のドラマですが、脚本は2時間分になってしまいました。でも、これ以上削ったら、作品に心がなくなると譲りませんでした。石井さんも脚本を読んで納得して、局側に直談判してくださったんです。それは異例の前編、後編に分けて放送され、これが当たりました」 石井さんとタッグを組んだドラマはその後も次々ヒットし、橋田さんの才能は開花していった。
仕事も家事も手を抜かず名作を生み出す
プライベートでも石井さんはキーパーソンになる。後に夫となるTBSプロデューサーの岩崎嘉一さんとの橋渡し役となり、付き合い始めて2、3カ月で結婚する。
「専業主婦になってもいいし、仕事を続けても後ろ盾があれば、脚本に口出ししてくる人たちに『それなら降ります』と強気に出られます。結婚はそんな不純な動機だったんです」と振り返る。
橋田さんの真意は分からないが、結婚後、橋田さんが〝良妻〟だったのは知られた話だ。結婚条件だった、夫の前では仕事をしない、不倫と殺人は絶対に書かない、これらを守り抜く。家事も一切手を抜かず、大勢の来客時でも手料理を振る舞った。睡眠時間は平均4時間、それを数十年続けた。
「NHK大河ドラマ『春日局』の準備をしていたころに、夫が肺がんで余命半年と宣告されました。一時は番組を降りようと思ったのですが、降りたら主人は自分が重病だと気付いてしまいます。肋膜炎だという嘘をつき通して、脚本を書き続けました」
41歳での結婚に、橋田さんは「お嫁にしてもらえた」という謙虚な気持ちがあればこそと笑うが、仕事も「させていただくという気持ちでした。テレビが元気だった時代に、オリジナルしか書かないというスタンスで、本当に好きなことを書かせてもらえました。感謝しかありません」と心境を語る。
そんな橋田さんの作品は、女性目線で女性に向けたものが多い。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』も豊臣秀吉ではなく、正室のねねの視点でドラマが展開した。平均視聴率52 ・6%(ビデオリサーチ調べ)をたたき出した名作『おしん』は、明治から昭和の激動期を生き抜いた女性の一代記だ。橋田さんの経験や人生観だけではなく、手元に寄せられる女性たちからの相談や悩みに寄り添い、ドラマを通して勇気づけ、励ましてきた。新聞の投書欄に欠かさず目を通し、社会問題や人々の〝想い〟にアンテナを張ってきたことも、作品が支持される要因といえる。
また、橋田さんの作品は役者泣かせの長台詞で、アドリブもNGなのは有名だが、これも視聴者が家事をしながらでも耳で話を追えるようにという主婦目線の配慮だ。
「私は一人っ子で、親戚付き合いもなく、子どももいません。主人は60歳で他界していますから、それでホームドラマがよく書けるわねと言われます。でも、家族がいないからこそ誰からも反感を買わずに書けます。それに自分に必要な出会いはとても大事にしてきました。特に石井さんと主人は、今の私をつくった人だと思っています。人との出会いで人は育つ。どんな人でも、どんな人生でも共通して言えることですね」
橋田壽賀子(はしだ・すがこ)
脚本家
1925年京城(現、ソウル)生まれ。日本女子大学卒業後、早稲田大学に進学。在学中に松竹の入社試験に合格し、中退。松竹の脚本部に配属され、初の女性社員となる。10年後の59年に独立。66年、TBSプロデューサーの岩崎嘉一氏と結婚(89年死別)。NHK大河ドラマ『おんな太閤記』『春日局』『いのち』や連続テレビ小説『おしん』をはじめ、『渡る世間は鬼ばかり』などのホームドラマを数多く手掛ける。92年橋田文化財団設立、理事長に就任。脚本家初の文化功労賞に選出されるなど受賞多数。
写真・後藤さくら
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