DJブースを飛び出して、観客と一体となって試合を盛り上げる。パトリック・ユウさん独自のDJスタイルは、今や東京ヤクルトスワローズのホームグラウンドである神宮球場の〝名物〟だ。スポーツMC、スタジアムDJの草分けとして、各種スポーツ、メディアからも引く手あまたのパトリックさんの、選手と観客の心をたぎらせる〝応援力〟に迫った。
野球少年でバスケも得意 でもほれ込んだのはDJ
DJ(ディスクジョッキー)の活躍の場は、ディスコやクラブ、ラジオ番組などが一般的だ。だが、パトリック・ユウさんのフィールドは広大なスタジアム。それも壁に囲まれたDJブースではなく、内野席と外野席の中間にある、通称「ブリッジ」と呼ばれるスペースだ。 「ゴーゴー、スワローズ!」 「レッツゴー! ムーチョー!!」 伸びやかな美声がスタジアムに響き渡る。パトリックさんの声を聞かないと神宮球場に来た気がしない。敵味方を問わずそう思わせる、記憶に残る声だ。 そのパトリックさんは、なんと神宮球場近くの渋谷区千駄ヶ谷で生まれた。米国人の父と韓国人の母を持ち、幼少時には神宮球場へ野球観戦によく行っていたという。まさに神宮の申し子。だが、それもつかの間、5歳の時に母と共に兵庫県神戸市に移り住んだ。 「物心がつく前からバットを握って遊んでいたそうです。小学6年生の頃には、友だちと野球チームを結成するほどの熱中ぶりでした」 だが、小中学校はインターナショナルスクールで、中学校に「部活」はない。春夏は野球、秋冬はバスケットボールに打ち込み、バスケでもキャプテン、センターを務める活躍を見せた。 「中学3年ですでに身長は185㎝あって、ダンクシュートも決められましたよ。ちなみに今は188㎝です」とおどける。
夢は甲子園出場、そしてプロ野球選手だったが、インターナショナルスクールには大会出場権はない。小中学校と高額な学費を母一人が負担している負い目もあり、高校進学を選ばなかった。そうした中、ひと目ぼれしたのがディスコDJだった。 「友人のお兄さんが店長を務めているお店に連れて行ってもらったことがあります。そこでDJが音楽とトークで、大勢のお客さまがいる空間を一つにまとめ上げている光景を目の当たりにしました。なんてカッコいいんだと衝撃を受けて、その日のうちに弟子入りしました」
ラジオDJへ転身後すぐに阪神淡路大震災で被災
無給の見習いから始め、ホールの仕事をしながら、パトリックさんは、お店の寮に入ったことで、昼夜問わず先輩DJのスキルを見聞きして腕を磨いた。パトリックさんのディスコDJとしての評判は上がっていく。DJ として独り立ちする一方、DJ以外にも興味を抱いたパトリックさんはバーで働き、ライブハウスの店長、クラブのマネジャーなどで生計を立てるようになっていく。 「インターナショナルスクールで培った英語力をもっと生かせる仕事がしたいと相談した先輩が勧めてくれたのが、ラジオDJです」
ディスコとラジオでは、同じDJでも全くタイプが異なる。好きなラジオDJの話すテンポや言葉数、リスナーへの語りかけ方などを約2年間研究した。そして、ラジオの制作会社などにデモテープを送って道を切り開く。1994年、兵庫エフエム放送(Kiss FM KOBE)のラジオDJに採用されたのだ。だが、ラジオへ軸足を移した翌年の95年、阪神淡路大震災で被災。パトリックさんは約2カ月間、避難所からラジオ局に通った。ラジオ番組は、被災者が必要な情報を届ける番組編成に一変し、パトリックさんも自身のDJとしての在り方、覚悟について深く見つめ直したという。どんな仕事も「NO」と言わずに挑戦する中、Jリーグのヴィッセル神戸からも声が掛かった。これがスタジアムDJの初仕事となる。 「98年までの4年間担当させてもらいました。ラジオ番組のレギュラーも増え、96年からは名古屋のラジオ局でも月曜日から木曜日まで帯番組を担当しました」
リスナーのためなら業界ルールを超える努力も惜しまないストイックな言動がいつしか周囲との間に軋轢(あつれき)を生んだ。パトリックさん自身、自律神経失調症、原因不明の腹痛を患ってしまう。生きる意味を見失い、向かった先が生まれ故郷の東京だった。 「途中、伊豆の伊東にあるジュディ・オング資料館の看板を目にして、ふと立ち寄りました。中までは入らなかったのですが、ジュディ・オングさんの曲『魅せられて』を耳にした途端、涙が止まらなくなって、そこから不思議と気持ちが吹っ切れました」
選手とファンを盛り上げスポーツ界への恩返しも実践
2002年、パトリックさんはスポーツMCを極めるため上京した。そして、縁があって声が掛かったラグビーやバスケットボールのアナウンスを務め、08年に東京ヤクルトスワローズのスタジアムDJとして活動を始める。 「プロデューサーから臨場感のあるアナウンスを求められて、それなら客席近くのオープンエアでやってみませんかと提案しました」
外に出てみると客席のざわめき、ブルペンでボールを捉えるミットの音、ピッチャーの投げる時に漏れる声さえも耳に入る。試合状況や客席のムードに合った声量、タイミングを肌で感じ取り、分析し、選手コール一つとっても苗字とニックネームを使い分けた。 「いろいろなDJをやらせていただいていますが、共通しているのはお客さまを楽しませて、その場を盛り上げること。スポーツには必ず勝ち負けがあります。だからこそ一番大切にしているのが、チームにネガティブな言葉を発しないことです。チームMCの時は、相手チームへのリスペクトはもちろん、味方チームにも『負け』という言葉は使いません。『勝利まであと一歩でした』『勝利とはなりませんでしたが、いいプレーがたくさんありました』など表現を工夫します。ノーヒットをがっかりするのではなく、ヒットが出たらファンと一緒に盛大に盛り上がればいい。ファンの応援は選手の力になります。そのきっかけづくりが私の役割です」
また「培ってきたことを後世に伝えていくのがスポーツ界への恩返し」と、17年にプロダクション会社「PʼS STADIUM」を設立。時代に即したスポーツMCやDJの育成にも注力している。
スワローズのスタジアムDJの傍らラグビーやバスケットボールのワールドカップなど国際競技大会のアナウンスを務め、さらに東京オリンピック2020では3人制のバスケットボールのアナウンスを担当。ただ、無観客開催で予定していた国立競技場での陸上競技のアナウンスは見送られ、悔しさを感じた。 「ですから、今年、25年に東京で34年ぶりに国立競技場で行われる世界陸上でアナウンスすることを目指しています」と楽しそうに抱負を語る。国内のスポーツ界でおなじみの声が、世界に轟(とどろ)く日を夢見る。
パトリック ユウ
スポーツMC/スタジアムDJ
1968年東京都生まれ。5歳の時に母と兵庫県神戸市へ。84年にディスコDJに弟子入り。94年よりKiss FM KOBEのラジオDJ、翌年サッカーJリーグのヴィッセル神戸のスタジアムDJとなる。34歳で上京。BAY-FMやTOKYO FMのラジオDJを務める。2008年より東京ヤクルトスワローズのオフィシャルスタジアムD Jとして活躍。現在はラグビーリーグワンの東芝ブレイブルーパス東京、バスケットボールBリーグのサンロッカーズ渋谷のオフィシャルスタジアムDJも担当
写真・後藤さくら