脳科学の視点から、人間社会に起こり得る現象や人物を読み解く。その語り口に定評がある脳科学者の中野信子さんは、テレビ番組のコメンテーターとしても引っ張りだこだ。脳や心理学をテーマとした研究や執筆活動も目覚ましく、著書、共著は数多い。ビジネス分野でも脳科学の活用が増える中、ますます中野さんの活動に、熱い視線が注がれている。
「私だけ台本がない」という絶望と覚悟から脳分野に興味
物心ついた時からすでにあった違和感。それは中学生の時に決定的なものになったと、中野信子さんは振り返る。 「同級生と話が合わず、私が興味を持つものに対して、周りは引いてしまう。社会の中で生きていくために必要な台本を、私だけ持っていないという感覚でした」
成績優秀で、周囲から羨望(せんぼう)のまなざしで見られていたかと思いきや、中野さんは、学校だけではなく、家庭でも〝変わった子〟だったという。純粋な疑問として「どうしてみんなはテストで100点を取らないの?」と言って、クラスメートをドン引きさせた〝事件〟さえ起こした。中学2年生だったある時、担任教師に職員室に呼び出されて「もっとテレビを見たら?」とほかの子どもたちとは真逆ともいえる〝指導〟もあったという。 「私には妹がいて、姉妹そろって似たタイプなら救われるのですが、妹は周囲とうまくやっていました。となると、おかしいのは私だ。何が、どこがおかしいのだろうと考えて、臓器の異常な箇所として行き着いたのが脳でした」
インターネットが普及していない時代、本屋や図書館で脳関連の本を読みあさっても、中野さんが知りたい答えは見つからなかった。社会に出たら生きていけない。生きていくには自分で研究するしかない。そうした絶望と決意が入り混じった思いから、脳への関心が高まっていった。
自分で思っている以上に意思決定は周りに左右される
だが、当時は「脳科学」という分野が今ほど確立されていなかった。それでも、誰もが批判も否定もできる科学の反証可能性に魅力を感じ、東京大学の工学部に進んだ。 「大学に行って、私と似たタイプや、それ以上に変わった方たちがいて、ほっとしたのを覚えています」
時代も味方するかのように、MRIを使って脳や脊髄の活動を視覚化できるfMRI(磁気共鳴機能画像法)が開発された。これによって脳科学の分野が急速に進展し、中野さんは工学部から医学部へシフト。大学院で脳神経科学と認知科学を専攻して医学博士号を取得した。そして、設備も人材も充実しているフランス国立研究所ニューロスピンで、ポスドク(博士研究員)として2年間勤務する。時を同じくして、世界人口上位2%の高いIQ(知能指数)の持ち主のみが入れるという国際グループ「メンサ」にも入会した。 「ポスドク以外の友人が欲しくて」とその理由をさらりと語るが、誰もが入れる団体ではない。好奇心旺盛で情報収集力の高い人、美的センスの優れた人など、刺激を受ける出会いがあり、加入期間は3〜4年だが、今も交流が続く友人を得る機会になったと振り返る。
脳科学の研究でも、脳の一部の未発達や過剰反応する人が一定数いるなど、自身が子ども時代に抱えていた疑問の答えとなり得る結果を導き出していった中野さん。だが、研究に終わりはない。2010年に帰国して研究、執筆を続けながら、13年には東日本国際大学客員教授、横浜市立大学客員准教授に就き、15年には東日本国際大学教授に就任した。確実にキャリアを積み上げ、各メディアへの出演も増えていった。 「私が研究テーマとして一番興味を持っているのは、集団における人間の振る舞いです。人一人を対象とした研究は多く、研究もしやすいのですが、私が取り組んでいるのはグループダイナミクス(集団力学)に関するもの。例えば、購買意欲一つ取っても、欲しいのに買ったら奥さんに怒られるとか、誰かや何かを理由に買わないことってありますよね。売り手目線の例を挙げるなら、着物を買おうか悩んでいるお客さまに『お孫さんの代まで着られますよ』とセールストークをすると購入につながる。ほかにも家族4人が食べたいものがバラバラだった時に、誰か一人の意見を通すのではなく、平等に誰も食べたくないものを選ぶという行動も、一人では起こり得ません。私たちは自分が思っている以上に、周囲の意見や関係性によって意思決定が左右されています。こうしたことを科学的に研究しています」
情報の量も速さも過剰な時代「決断力」より「更新力」
脳科学のトレンドとしては「生成AI」と「量子認知」(量子力学の原理を応用した認知科学の新モデル)の二つで、ビジネス界からは前者関連の相談が多いという。 「すでに生成AIなしに仕事が成り立たない時代といえます。学問もアートも同様で、現状、AIが人間より不得手なジャンルは〝お笑い〟ぐらいだと思います。それも時間の問題で、人がどんなに速く走っても新幹線にかなわないのと同じ。人間に勝ち目はありません」
だからこそ好きに生きられる。そう肯定的に捉える一方、AIに仕事が奪われる危機感も根強い。 「人は合理的にも論理的にも生きていなくて、仕事も収入を得るだけではなく、人に必要とされているという存在意義を満たすものでもあります。この存在意義を揺るがされる恐れがAI問題の根幹にあるといえます。18世紀の産業革命後に人が機械を使いこなしてきたように、AIをツールとして使っていけるかどうかが鍵ですね」
ピンチはチャンス。失敗は成功のもとといわれるが、膨大な失敗のデータを収集、分析して最適解を導くこともAIの方が得意だ。だが、失敗は必ずしもネガティブなものではないと中野さんは説く。 「想定通りの答えが出なかった時、ブレイクスルーが起こることもあります。中小企業なら、特にここ10年、20年で問われるのは失敗した時のリカバリー力。私も苦手なので自分に言い聞かせるように言いますが、必要なのは、失敗したときに自分を、自社を、プレゼンする機会にする行動力です。運の良しあしも、実は行動パターンに裏付けられていて、運の良い人の行動パターンをまねすれば、運は上向きます。つまり行動次第です」
運の良い人の後追いに終始するのではなく、パターンを取り入れたら、自分を軸とした行動基準、価値を築き、柔軟に更新していくことが大切だと語る。 「そもそも人間の脳の性質として、既存の価値と比べないと、自分自身の価値すら決めることができません。それを知った上で自社の価値や強みを明言できれば、一国一城の主である経営者は、名君になり得るのではないでしょうか」
情報が加速していく時代に、重要なのは「決める」ではなく「更新する」ことと中野さん。 「私自身も、面白いと思う感覚を磨いて、更新し続ける人でありたいです」と言って笑った。
中野 信子(なかの・のぶこ)
脳科学者
1975年東京都生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業。2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。同年より2年間、フランス国立研究所ニューロスピンで博士研究員として勤務後、帰国。15年に東日本国際大学教授、20年に京都芸術大学客員教授に就任する。22年森美術館理事に就任。『科学がつきとめた「運のいい人」』(サンマーク出版)、『感情に振り回されないレッスン』(プレジデント社)など著書多数。テレビやラジオなどのコメンテーターとしても活躍中
写真・後藤さくら