世界最高峰のプロバスケットボールリーグNBA(National Basketball Association)の、日本人2人目の選手となった渡邊雄太さん。NBA平均在籍期間4〜5シーズンといわれる中6シーズン在籍し、2024年の帰国後も活躍を続ける。W杯、オリンピックそしてNBAでの華々しい活躍には、絶え間ない努力と覚悟があった。
バスケ一家で生まれ育ち昼夜バスケ漬けの日々
2011年、高校2年生の渡邊雄太さんは、すでに男子バスケットボール日本代表としてコートに立っていた。当時の史上最年少選手として注目を集めたが、渡邊さんは小学生の時からずっと〝その先〟のコートでのプレーを夢見ていた。それがNBAだ。
「僕が4歳の時に香川県に移住して、そこで母がミニバス(ミニバスケットボール)のコーチをしていました。小学生にならないとチームには入れないのですが、週4日は母に連れられて体育館に行っていました」と渡邊さんは語る。両親ともに元実業団のバスケ選手で、家ではバスケの話が四六時中飛び交い、テレビをつければNBAの試合中継が流れていたと振り返る。姉もバスケ選手というバスケ一家として知られ、育った環境や才能に恵まれて、渡邊さんは期待通りNBA選手になった―そう簡単な話ではない。
NBA選手になるのは狭き門であり、その門に続いているかも分からない日本の道なき道を、渡邊さんは小学生の頃から脇目も振らず突き進んだ。学校の登校前や下校後は親子での練習が日課で、よく電信柱をバスケットリング代わりにシュート練習を繰り返したという。練習はゲーム感覚でできたそうだが、遊びたい盛りにひたすらバスケに打ち込んだ。
「僕自身、大の負けず嫌いで、バスケ以外のささいなゲームでも、周りが引くほど勝とうとせずにはいられない性格です。それは今も変わらないのですが、子どもの頃の僕は『優しすぎる』と、弱気なプレーをよく親に注意されていました」
渡邊さんのNBA選手になる夢を、中学、高校の指導者も応援した。後に2m超えの身長になる渡邊さんの成長期に、中学の平田コーチは、将来を見据えてハードな練習をさせなかった。尽誠学園高校の恩師・色摩拓也監督は、長身の渡邊さんをゴール下だけではなく、どこからでもシュートが打て、攻守ともに考えてプレーできるオールラウンダーとして育てていく。初心と謙虚さ、感謝を忘れない渡邊さんの言動はこうして築かれていった。
地道に努力し続ける姿に海外でも一目置かれる
「米国留学に反対の声が多く寄せられて、高校生だった僕は罪悪感を覚えて、諦めかけたことがありました。その時、色摩先生から言われて、今も心に留めている『失敗した人というのは、諦めた人のことをいう』という言葉で、決心がつきました。両親やチームメイト、そして父親を通して日本人初のNBAプレーヤー・田臥勇太さんから『絶対行くべき』と言ってもらえたのも励みになりました」
渡邊さんはジョージ・ワシントン大学に入学した。バスケ部に入ると1年生から試合に出場し、4年生ではキャプテンを務め、全米の大学バスケ界の最高峰NCAA1部でワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズ紙に取り上げられるほど活躍した。
「入学当初は言葉の壁もそうですし、勉強の成績が悪いとバスケができない大学のルールがあって、その両立は肉体的にも精神的にも大変でした。バスケが好きで、好きだからもっと上達したい。それが子どもの頃から変わらないモチベーションです。でも、正直、体が重い、やる気が出ないという日もあって、大学1、2年の頃には、前日にわざと大学に忘れ物をして、取りに行かないと困る状況をつくりました。そうしてシューティングの自主練を休まず続けました」
ストイックなまでにバスケに打ち込む渡邊さんの姿は、口先だけではないリーダーとしてチームメイトに説得力を与えた。中学、高校とキャプテン経験のある渡邊さんは、異国の地でも自ら率先して態度で示すことで、チームをまとめ上げていったのだ。
