平成26年2月開催のソチオリンピックのスノーボード競技で、日本人女性初のメダリストに輝いた竹内智香さん。4度オリンピックに出場し、来年の平昌(ピョンチャン)オリンピックを見据える、女子スノーボードアルペンの第一人者だ。16歳で日本代表チームに選ばれて世界各国を転戦し、22歳で直談判してスイスのナショナルチームに入ると実力を開花させて世界ランキング2位になった。「何とかなる」ではなく「何とかする」行動力に、夢をかなえる底力を見た。
小学生のときにオリンピック出場を宣言
将来の夢を実業家、後継ぎ、オリンピック選手の3つから選べと言われたらどうするだろうか。毎年正月に父親から言われ、見事かなえた三きょうだいがいる。
「二人の兄が実業家と後継ぎを選んで、私はどちらのセンスもないのでオリンピック選手かなと思ったのです」と笑うのは、スノーボードアルペン選手の竹内智香さんだ。実家は北海道の旭岳の麓にある老舗旅館「湧駒荘(ゆこまんそう)」で、父親は大学時代に馬術部に所属しており、オリンピック選手の候補にまでなったスポーツマンだった。竹内さん自身も小さいときからいろいろなスポーツをそつなくこなし、2、3歳で始めたスキーは、小学4年生のころには同級生の中でも群を抜いていた。
「冬季オリンピックに出る。どの種目で出るかも決めず、そう宣言していました」。そして小学6年生でスノーボードと出合うと、スキーにはない遠心力や重力の掛かり方、スピード感、ファッション性の高さに魅せられていく。10年、スノーボード競技がオリンピック正式種目になった長野オリンピックを目にしたとき、竹内さんの思いが定まる。「スノボでオリンピックに行けるんだ。それなら」とスノーボードに本腰を入れていった。中学3年で道内一のベストタイムをたたき出し、高校は全国で唯一スノーボード部がある強豪・北海道上川高校を選ぶ。16歳で日本代表チームに入るなど頭角を現していくが、学業との両立には頭を抱えたという。
「学業を優先すると高校3年で迎えるソルトレークシティオリンピックへの調整が間に合いません。いっそ休学してヨーロッパへ行こうかと真剣に悩みました」
高校2年で転校した先はクラーク記念国際高校で、冒険家の三浦雄一郎さんが校長を務める通信制高校だ。「学生」よりも「選手」としての道を選んだ竹内さんは、小さいころに宣言したとおり、14年ソルトレークシティオリンピック出場を18歳で成し遂げた。
スイスの代表チームへ直談判して参加すると……
続く4年後の18年トリノオリンピックにも出場するが成績は振るわず、ついに19年には代表チームからの除外を言い渡されてしまう。23歳になっていた竹内さんはチーム最年長で、世界ランキング15位前後で伸び悩んでいた。勝負の世界にいる以上はトップに立ちたいとの気持ちと引退の二文字、そして日本人では通用しない競技であるとの定説が頭を駆け巡る。
「チームから外されるなら日本にいる意味がない。こんなにやっても通用しない理由を知るためにも海外に行こう。知ったうえで見切りをつけよう」と選手として崖っぷちの心境で海外へ飛んだ。向かった先は強豪国スイス。ワールドカップ転戦中に「練習に参加させてほしい」とナショナルチームに何度も直談判するが全く相手にされなかった国の一つだ。それでも「入れてもらえなくても行く」と覚悟を決めて向かった。スイス側から見れば無名の竹内さんを受け入れることに何のメリットもない。だが、何度も懇願する熱意にほだされたのか、コーチや選手の中から「2カ月だけなら」という声が上がった。このチャンスが竹内さんの眠っていた才能を呼び覚ますことになる。
「自分でも驚くぐらい雪上タイムが伸びて、参加して2週間でチーム一のタイムが出たんです。『表彰台に立ったことがない? 信じられない』とまで言われて、自信を取り戻していきました」
8月から2カ月の約束が、翌年3月まで延長となったものの、3月以降も同行したければドイツ語を話すことが条件だと言われる。それまでは片言の英語で意思疎通を図っていた竹内さんにとって、ドイツ語はお手上げ状態だ。学費もバカにならず、そもそもスイスは物価も家賃も高い。そこで見つけたのが、住み込みのベビーシッターという仕事だった。家賃が無料になるうえに、家主は語学教師の有資格者でドイツ語も教えてもらえたという。
ドイツ語をマスターし、チーム強化に欠かせないトレーニングパートナー、ムードメーカーとしてチームを引っ張っていく。気が付くと5年の月日が流れていた。
「今振り返っても、スイスでの5年間は人としても選手としても私を大きく変えてくれました」
アスリートだけでなく別の世界でも輝くために
そして、竹内さんはさらに力を付けるべく24年に専属コーチとしてオーストリアのフェリックス・スタドラー氏と契約し、同氏と共に日本に戻ってくる。「メダリストメーカー」といわれるほど数々のメダリストを育成した人物で、竹内さんも同年のワールドカップで初優勝を飾るなど、成果を発揮していく。迎えた26年のソチオリンピックでは見事銀メダルを獲得したが、その成績には今も悔しさをにじませる。
「メダル確定に安心してしまった私と、金メダルを絶対取ると挑んだ選手との差が出た結果です」
銀メダリストとして終わりたくないと、今は体幹の弱さを改善すべくフィジカルトレーニングに重点をおいて励む日々だ。だが、トレーニング漬けではない。日本人選手としては珍しい本業以外の〝セカンドキャリア〟を持つ竹内さんは、世界トップ選手であるシモンとフィリップスのショッホ兄弟と共に、「BLACK PEARL」(www.blackpearljp.com)というブランド名でスノーボードの開発・製作を手掛けている。竹内さんをはじめ、このボードで大会に出場する選手は確実に増えている。
「スイスのナショナルチームは、みんな高学歴で薬剤師や大工、車のメカニックなどセカンドキャリアを持っていました。私も選手であると同時に、開発者、製作者です。〝ブラックパール〟で表彰台を独占するのが、もう一つの夢です」と目を輝かせる。
雪上以外での活動はそれだけではない。広島県北広島町がウインタースポーツで観光振興を図ると知ると「ワールド・スノーボード・フェスティバル」構想を持ちかけて実現させる。さらに県知事にも直談判して「ひろしま観光大使」に任命されるなどアスリートにとどまらない活躍で、自らの人生を切り開いている。30歳を超えたが、スノーボーダーとしてのピークはまだ先にあると信じて平昌オリンピックに挑むつもりだ。「もちろん勝ちにいきますよ」と、竹内さんは屈託のない笑みを浮かべた。
竹内智香(たけうち・ともか)
スノーボードアルペン選手
昭和58年北海道生まれ。中学生のときに長野五輪を見て、本格的にスノーボード競技を始める。平成14年ソルトレークシティ五輪22位と予選落ちするが、16年はW杯で3位、アルペン種目で日本人初の表彰台に立つ。18年全日本選手権で優勝するもトリノ五輪9位に終わり、翌年スイスに練習拠点を移す。21年世界選手権パラレル大回転4位で日本人初の入賞を遂げ、22年バンクーバー五輪13位、24年のW杯で初優勝を果たす。26年ソチ五輪で銀メダルを獲得。広島ガス(広島商工会議所 会頭会社)所属
写真・後藤 さくら
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