橋を架けて料金を徴収
秋田県の東南端に位置し、県南部の玄関口となっている湯沢市で、和賀組は総合建設業を営んでいる。創業は明治10(1877)年で、初代市蔵が皆瀬川に橋を架ける工事を行ったことに端を発する。 「初代が今の秋田市にあった橋梁(きょうりょう)社の支社として仕事を請け負ったのが始まりです。和賀家はもともと仙台藩の家中で、市蔵の父親の代に故あって秋田藩に仕えるようになり、営繕係となりました。明治維新で藩がなくなると、渡し場から舟に乗る場所に橋を架けるようになったのです」と、和賀組五代目で社長の和賀幸雄さんは言う。
初代は川に橋を架けると、知事から期限付きの許可を得て、橋を渡る人から通行料を取って建設費用を賄っていた。その際、通行料は地元の人からは取らず、外から来た人や馬に課していた。 「今でいうPFI事業(民間の資本と技術力・経営能力を使った公共事業)のようなものです。水害で橋が壊れたり流失したりすると、そのたびに自分たちで補修し、県に請願して料金徴収の許可年限を延ばしてもらっていました」
その後、地域の木造校舎や橋の建設、土木工事、木造船の建造などを行うようになっていった。 「大正6(1917)年の尋常高等小学校校舎建築で、その工事が評価され、村長から感謝状をいただきました。12年の関東大震災の際には復旧工事で東京まで行き、昭和10年には請け負った橋梁工事をきっかけに当時の内務省の技術者が和賀組に入ることになり、それで一気に技術力が高まりました」
一度縮小した建築を復活
昭和に入ると、建築の主流がこれまでの木造からブロック造や鉄筋コンクリート造へと変わっていった。それまで木造建築のみを行ってきた同社は、戦後になり、建築はやめて土木工事をメインにする決断をした。そのため、大工や建築の技術者は少なくなり、建築事業は大幅に縮小された。 「私が和賀組に入社して専務に就任した平成5年当時、国鉄時代からのご縁でJR東日本の鉄道関連工事の仕事をするほかは、公共土木事業がメインでした。しかし会社の歴史を見ると、以前は建築も請け負っていた。そのDNAが会社に残っているはずだから、建築をもう一度復活させなければと思ったんです」
和賀さんの旧姓は千葉だった。湯沢市で生まれ育ち、東京の大学を卒業後は、10年以上東京の会社で営業マンとして国内外を飛び回っていた。そして30歳を過ぎた頃、後を継ぐ息子がいなかった和賀家の長女との縁談が舞い込み、翌年結婚。3年後に同社に専務として入社したのだ。 「しかし、婿として座っていればいいと、仕事を教えてくれる人もいない。不安になっていたときに、東京でお世話になったある社長さんから『経営者は会社のキャプテン。エースでも四番打者でなくてもいいが、会社の中でその仕事が一番好きじゃなきゃダメなんだ』と言われたんです。それですぐに建設業を好きになれたわけではありませんが、意識が変わりました」
市のPFI事業を受注
公共土木工事は、常に仕事があるわけではないため、経営を安定させるには事業を増やす必要がある。そこで、和賀さんは建設事業の復活に懸けた。平成10年から鉄筋コンクリートマンションの受注建築に着手したのだ。 「社内からは反対されました。建築は利益幅が小さいし、土木の現場とも仕事の進め方が違う。絶対に失敗すると思われていました」
最初から大きな利益を上げたわけではないが、徐々に実績を積んでいくうちに、公共建築事業の仕事も入るようになった。今では公共・民間の土木と建築工事以外に、コンクリート補修工事、鉄道工事、地盤改良、不動産など事業の幅を広げ、21年に和賀さんが社長に就任してからは、会社の経営も安定した。和賀さんは、入社から20年がたってようやく、建設業を心から好きだと思えるようになった。 「お客さまから和賀組さんにお願いしてよかったと言われる瞬間が好きですね。これが一番のやりがいです。今では、苦しいときでも希望の灯(ともしび)を高く掲げて笑っていようという、明るい社風になりました」
そして昨年度には、湯沢市の複合施設の設計・施工・運営を行うPFI事業を、同社が代表するコンソーシアムが受注した。 「うちの初代が行った橋の建設・運営と同じようなことを始めます。そういう意味では創業者の思いに近づけたかなと思っています。これからの公共施設は、PFI化が進んでいくと思うので、それに対応できる体制を整えていきます」
時代と共に変革は重ねても、建設とその運営で、地域に貢献する同社の姿勢は変わらない。
プロフィール
社名 : 株式会社和賀組(わがぐみ)
所在地 : 秋田県湯沢市柳町2-2-40
電話 : 0183-73-5107
代表者 : 和賀幸雄 代表取締役
創業 : 明治10(1877)年
従業員 : 約80人
【湯沢商工会議所】
※月刊石垣2024年5月号に掲載された記事です。
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