森田緑化
徳島県徳島市
四代目から事業が発展
四国を横断して流れる吉野川の支流、鮎喰川の沿岸に、緑化・土木・太陽光発電事業などを行う森田緑化はある。始まりは1877(明治10)年、苗木を生産する森田翠澄園として創業した。
「この辺りは大雨が降ると川が氾濫するので米が取れず、周囲の農家は果樹の苗木栽培などで生計を維持していました。うちも元は農家で、苗木や植木を栽培し始めたのが商売の始まりでした」と、同社の五代目で現在は会長を務める森田年昭さんは説明する。
太平洋戦争中、作付統制政策のために苗木畑は芋畑に変えられ、苗木生産は一時途絶えたが、戦後の1951年に森田農園と改名して事業を再開した。そこから会社の発展が始まった。「私の父で、後に四代目となる富雄が、それまで勤めていた県庁の公務員を辞めて婿養子として入り、三代目の勇と一緒に森田農園を始めました。三代目は趣味人で人が良く、商売に向いていなかったので、事業は主に四代目が仕切って手堅く商売をやっていきました。当時の社員は3人ほどだったそうです」
戦後間もなくは山の植林が盛んで、杉やヒノキの苗木の需要が多く、高度経済成長期に入るとミカンや栗、柿など果樹の苗木の需要が高まり、森田農園もその需要に合わせた苗木の生産を行っていた。ピーク時にはミカンの苗30万本、杉の苗500万本を納入するなど、苗木事業を順調に伸ばしていったが、その一方で、60年には造園という新たな事業へも参入。個人宅の庭の造園から始め、その後、造園工事業の知事許可を取得して公共造園工事事業を開始した。
需要の変化の流れを見る
年昭さんが会社に入ったのは70年ごろ。四代目で社長の父親のサポート役としてだった。「父は以前、役人だったこともあり、人に頭を下げるのが得意ではありませんでした。その分、私がかばんを持って走り回り、営業をほとんど一人でやっていました。そうした中で世の中の需要の変化の流れを見て、創業当時からやっていた苗木の生産や植木の流通はやめ、うちができそうな新たな事業を見つけては参入していきました」
83年には、ゴルフ場のオーナーに植木を納入したのをきっかけに、ゴルフ場の植栽工事を手掛けるようになった。89年には法面工事(切土や盛土による人工的な斜面が崩壊しないよう保護する工事)も始めた。91年に年昭さんが五代目として社長に就任すると、93年にはゴルフコースの全面委託管理業も開始。その後も、工場やホテル、マンションなどの植栽管理、そしてサッカー場のグラウンド管理業と、時代の要求の変化に対応した業務を追加していった。
「バブルの頃は建設投資が日本のGDP(国内総生産)の約15%もあり、公共工事である法面工事に進出しました。大手土木企業が法面工事も手掛けていたので、中小企業が入り込めるような隙間市場があると踏んだのです。好景気で周りには派手なお金の使い方をする人がたくさんいましたが、私はいつまでもそんなことは続かないと思っていました」
経済新聞でヒントを得る
世間がバブルで浮かれていた頃に年昭さんが出会ったのが「成名毎在窮苦日 敗事多固得志時」(名を成すは常に窮苦の日にあり、事に敗るは多くは得意の時に因る)という言葉だった。「厳しいときにこそ商機がある。有頂天になったときには壊れやすい。この言葉に出会ったからこそ、これまで生き残ってこられたと思います」
このように地道に事業を続けてきた年昭さんだが、常に新たなビジネスの道も探し続けている。
「一つの商売では30年が限界といわれますが、これまでさまざまな事業を手掛けてきて、それを身に染みて感じています。なので常に新しいものに取り組んでいかないといけない。そのアイデアを見つけるのは、ほとんどが経済新聞です。小さなニュースがヒントになったりします。その最たるものが太陽光発電で、2012年あたりから新聞でしばしばその言葉を目にするようになっていました」
これは大きなビジネスにつながると確信した年昭さんは、12年から太陽光発電事業に参入し、今ではその売り上げが全事業の3割以上を占めている。「造園とは全く違う事業ですが、緑や大地と太陽光という、自然を利用する意味では根本は同じです。これからもそれを柱に、そこから派生する隙間的なビジネスがあれば、果敢にチャレンジしていきます」
創業以来“緑の創造”に携わってきた森田緑化の、新たなビジネスへの挑戦はまだまだ続く。
プロフィール
社名:森田緑化株式会社(もりたりょっか)
所在地:徳島県徳島市入田町海先87-1
電話:088-644-3550
代表者:森田真輔 代表取締役社長
創業:1877(明治10)年
従業員:67人
※月刊石垣2019年8月号に掲載された記事です。
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