ホットマン
東京都青梅市
自分たちで完成品をつくる
平安時代以前から織物の里だったという言い伝えがあり、古くから織物産業が盛んな東京都青梅市。ここにタオルを製造販売するホットマンはある。創業は明治元(1868)年。当初は着物用の絹織物を製造していたという。
「創業に関する明確な資料は残っていないのですが、明治元年、織物業に専化したという記録は残っています。明治が終わり、普段着としての着物文化が薄れていく中で、夜具地(やぐじ)と呼ばれる寝具用の生地や婦人服地をつくるようになっていきました。特に、夜具地はかつて国内シェアの約65%が青梅産だったほどです」と、ホットマン社長の坂本将之さんは語る。
以前はテーブルクロスをアメリカにも輸出していたが、第二次世界大戦が始まると、鉄製の機械は武器にするため国に接収されてしまい操業できなくなってしまった。戦後、徐々に操業を再開し、昭和26年、梅花紡織株式会社を設立。婦人服地などを製造していった。
「株式会社化してからの2代目社長は、つくった服地を発注元に納めるだけでは、それがどのような服になってどのような人に着ていただいているのかまでは見えなくて悔しいと感じていたようです。自分たちで完成品のつくれるものをやりたいと考えた末に思い付いたのが〝タオル〟だったのです」
タオルなら形がシンプルなので、商品が出来上がるまでの過程全てに関わることができる。また、当時はまだ手拭いが主流で、タオルは一家に1枚あるかないかといった時代であったため、これから伸びていく可能性もあると見込んだのだった。
タオル製造機120台を確保
30年代半ば、製造用機械の登録台数を管理していた通商産業省(現:経済産業省)がタオル製造機械の台数増加計画を発表した。「すぐに申請し、青梅市に120台分を確保しました。そのうちの30台を自分たちの工場で使い、残りの90台は周辺の工場に一緒にタオルをつくらないかと声を掛けて渡していきました」
当時、タオルの生産は、愛媛、大阪、三重、福岡という大きな産地がすでにあった。後から参入する以上、他社の真似をせず、これまでに培ってきた技術や知識を使った新しいタオルをつくる必要がある。そこで、良質な原料を使い、オリジナルの細い糸で高密度に織ったタオルを開発した。実際にタオルの製造を始めたのは38年のことだった。
「最初の9年間は商社にタオルを卸していましたが、47年には東京・六本木に直営店を開き、直販を始めました。当時は問屋に卸すのが普通でしたから猛反対を受けました。それでも自分たちの商品は、自分たちつくり手の情熱と一緒に消費者の元に届けたかったのです」と坂本さんは言う。
一般的なバスタオルが500円ほどだったころ、高品質のオリジナルタオルを1500円で発売。「『ホットマン』の名前は、タオルの温かみと、つくり手の熱い思い、そして、販売店の店員も心の温かさを持つ人たちだということから付けました。六本木の店がうまく軌道に乗り、その後は全国の百貨店に直営店を置くことができるようになりました」
38歳という若さで社長に就任
平成25年には、吸収力に優れたタオルを『1秒タオル』と名付けて販売を開始。これは1㎝角に切ったタオルを水に浮かべたとき、1秒以内に水中に沈み始める製品で、現在ではホットマンの主力製品となっている。
「自分たちの商品は、どうしてもあれもこれもとすべてアピールしたくなります。しかし、詰め込みすぎると逆に伝わらない。そこで、このタオルの根本となる機能は吸水力なので、そこに絞り込んだコンセプトをインパクトのある名前でアピールしました。これにより、製品の良さが伝わるだけでなく、多くの人から興味を持っていただけるようになりました」
こう語る坂本さんは、7代目社長だが、創業家の出ではない。大学卒業後の11年に入社し、工場や研究開発室、商品部などを経て、27年4月に38歳という若さで社長に就任した。
「3代目までは直系が社長を務めましたが、それ以降は社員から出ています。私は製造部門が長く、商品については工程を含めて会社で一番よく分かっています。時代が変化していく中で、革命に近いことを起こしていかないと会社は生き残れない。これからは製品のことをよく知っている若い世代に引っ張っていってもらいたいということで、私が選ばれました」
また、坂本さんは、「私は会社の中で創業家社長の思いを直接聞いている最後の世代。その思いを会社内で共有して、人を育てていかなければなりません」と語った。
プロフィール
社名:ホットマン株式会社
所在地:東京都青梅市長淵5-251
電話:0428-24-6500
代表者:代表取締役社長 坂本将之
創 業:明治元(1868)年
従業員:405名
※月刊石垣2017年3月号に掲載された記事です。
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