福島県は、会津、中通り、浜通りの3つの地方に分けられますが、須賀川市は中通り地方のほぼ中央にあります。江戸時代には奥州街道有数の宿場町、米や生糸などの集散地としてにぎわい、当時の須賀川商人の手腕は「生き馬の目を抜く」といわれたほどです。
また、商人による「自治のまち」でもあり、享保年間には町政・財政を話し合う町会所が設けられ、町益金をもとに公益事業や福祉事業を行っていました。特に感銘を覚えるのは、天明の大飢饉の際の窮民への米の拠出や貧しい家の子どもたちを救う赤子養育制度などがあったことです。
当社は、その旧奥州街道沿いで、天保15(1844)年に染物業として創業し、私で五代目です。現在は、のぼりや暖簾(のれん)、半纏(はんてん)などに加え、当市が〝特撮の神様〟円谷英二監督の生誕地であることから、ウルトラマンのまちづくりにちなんだ前掛けや手拭いなども手がけております。
商工会議所活動では、父も会頭でしたので、親子二代で会頭です。
これからも私が座右の銘とする「守命共時」に従い、家業や地域の天命を守り保つために時勢と共にして行動したいと考えております。
当市にはさまざまな行事祭事があります。その中で私のライフワークとしているものが、毎年7月14日の宵祭りに3万人以上が訪れる「きうり天王祭」です。疫病が流行した昔、祭神にきゅうりをお供えしたところ疫病が消散したという古事による祭事で、きゅうり2本を供え1本頂いて持ち帰り、その年の無病息災を祈願するものです。この祭事が近づくと若い頃はもちろん、今も仕事が手につかないほど全力で取り組んでおります。
また、毎年11月第二土曜日には、戦国時代末期の須賀川城落城を偲(しの)んだ「松明(たいまつ)あかし」が開催されます。市街地の小高い丘一体に直径約2m高さ7m以上の大松明が約30本並び、紅蓮(ぐれん)の炎で夜空を染め上げる光景は迫力満点。そのとき「奥州須賀川松明太鼓保存会」の勇壮な、時に悲壮な太鼓の音が響き亘(わた)りますが、この団体を守り育てることも私の生涯で果たすべき役割と考えております。
当地は、現在も原発事故の風評被害の影響などにより、震災以前のような状況ではありませんが、全国の皆様からのご厚情ご支援により、着実に復興創生の道を歩んでおります。伝統文化の継承も復興に欠かせない要素の一つと考えておりますので、ぜひ当地に足を運んでご覧頂ければ幸いです。
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