うぶけや
東京都中央区
屋号が表す刃物の切れ味
打刃物の製造・販売店であるうぶけやは、江戸時代からの繁華街として知られる日本橋人形町にある。天明3(1783)年に大阪で創業し、初代の㐂之助(きのすけ)が打った刃物が「うぶ毛でも剃(そ)れる、切れる、抜ける」と評判になったことから、その名が付いたという。
江戸時代後期になると江戸に支店を出し、区画整理で何度か移転したのち、明治維新前に現在の場所に店を構えるようになった。以来、職人であり商人である「職商人」として、代々続く技術を継承しながら店の暖簾(のれん)を守っている。現在の当主を務めるのは、八代の矢﨑豊さんである。
「江戸時代、刃物の製造はやはり歴史のある上方のほうが技術が高かったのでしょう。ところが商売となると江戸が最大の消費地なわけで、そこで三代から四代目のころ江戸店を開業したわけです。また、創業を天明3年としていますが、これは歖之助の墓に書かれていた没年です。ただ、これ以外に記録がなく、明治のころに商工会議所に店を登録する際、この年を創業年として書き込んだそうです」
江戸時代は戦乱もなく、庶民生活も安定していた。そのため食文化も発展し、一般家庭でも包丁などの刃物の需要が増えていった。
「18世紀半ばから後期にかけては、今でいう菜切包丁や出刃包丁、刺身包丁などの原型が形づくられた時代です。それ以外にも、お裁縫や植木、生花などに使う刃物の需要も増えていました」
職人と跡継ぎの修業を並立
うぶけやは、大阪の店を本店とし、江戸店と兵庫の神戸店、それぞれ血族が店を営んできた。ところが昭和40年代になると大量生産品が出回るようになり、刃物業が斜陽になった。それに加えて大阪の本店に跡継ぎができず、そのまま本店は廃業、同時期に神戸店もなくなり、うぶけやは東京の店のみとなった。
「私に兄でもいれば、私が大阪に跡継ぎとして入っていたかもしれません。そもそも私の祖父母も、大阪から東京に夫婦養子で入ってきているんです。私は本店も含めて、うぶけや八代になります」
矢﨑さんは大学卒業後、店を継ぐことを決意した。そして戦前から店と付き合いのある東京一の研ぎ専門店で修業を始めた。
「うちでも店の仕事があるので、朝9時前に店の準備をして、それから研ぎの店に行って午後5時まで仕事をして、それからまた店に戻って雑務をしていました」と言う矢﨑さんは、こうした生活を20年間続けていたという。
「門前の小僧習わぬ経を読むなどといいますが、やはり手仕事というのは、きっちり修業しないとだめ。代を継ぐ心構えを持ってから始めないと、意味がありません。私も24歳で店を継ぐと決めてから、研ぎの修業を始めました。その代わり、やるとなったら毎日です」
変えるものと守り続けるもの
うぶけやの商品は、専属の職人が製造し、最後にうぶけやで「刃付け」と呼ばれる最後の研ぎ作業をしたものが店頭に並ぶ。また販売だけでなく、刃物の修理、研ぎ直しも受け付けている。
「研ぎ方については、刃の形はこのようにするというものが代々伝わっています。それは口伝ではなく、品物として残っているものを自分で見て触り、うぶけやの形を体得していくというものです」
このように老舗として代々続く技術を継承しながらも、時代の変化にも対応する必要がある。その一つが素材の変化である。
「ステンレスも出始めのころは全然切れなかったのが、今では改良されて、鋼(はがね)とほとんど変わらない切れ味になっています。今でも鋼の包丁はつくられていますが、多くがステンレス製になっています」
また刃物を研ぐ砥石(といし)も、以前は天然物を使うのが普通だったが、その産出量が減り、今では人工の砥石がメインになっている。
「いずれなくなってしまう天然物に固執していてもしょうがない。それよりも自分が若いうちに慣れてしまったほうがいいと思い、20年くらい前から人工の砥石に切り替えていきました」
そんな時代の変化に対応しながらも、老舗として変わらず守り続けているものがある。それが、客との縁である。
「三代にわたってお付き合いがあるお客さまもいます。おじいさま、おばあさまにお求めいただいた品物は、私の祖父がお分けしたもの。それを私が修理する。代々伝わる言葉に『うぶけやで切れないものは毛抜きとお客さまとのご縁』というものがあります。そういったご縁を切らないためにも、うちは職商人という今のスタイルを続けていくのがベストだと思っています」
うぶけやの刃物は、一生ものに留まらず、代々受け継がれていくだけの価値も提供している。
プロフィール
社名:うぶけや
所在地:東京都中央区日本橋人形町3-9-2
電話:03-3661-4851
代表者:矢﨑豊(8代)
創業:天明3(1783)年
従業員:3名
※月刊石垣2016年6月号に掲載された記事です。
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