会津松平家の一門に生まれ、母方祖父に当たる德川宗家17代家正の養子となり、家督を継いだ德川恒孝さん。しかし浮き世離れしたところは少しもなく、「和」の心とグローバル感覚を身につけた紳士だ。現在も日本全国を巡り、260年もの間平和を保ち続けた江戸文化について語り継ぐ。そんな恒孝さんに、日本の在り方について新旧両面から伺った。
德川家初のサラリーマンとして45年間勤め上げた
恒孝さんは昭和15年、松平(一郎)家の次男として誕生した。17代当主・家正さんの長男が早くに亡くなったことから、家の決まり事に従って、長女豊子さんの次男である恒孝さんが德川宗家の養子に入り、家督を継ぐことになった。
「幼い頃から特別扱いされ、何かにつけて祖父の家を訪問していました。祖父は15日間毎日国技館に行くほど大の相撲好きで、私もよく連れて行ってもらいました。相撲帰りにはおいしいものを食べさせてくれる優しいおじいちゃまでした」
恒孝さんが中学2年生のとき、「恒孝、うちにくるかい?」そう家正さんに尋ねられ、二つ返事で「いいよ」と答えた。このとき、家柄のことは告げられなかったという。今振り返ると、〝してやられた感〟がなくはない。
松平邸と德川邸は、徒歩5分ほどの場所にあった。家政婦が夕飯の支度を終えるのが午後5時半過ぎ。祖父母の健康を気遣って、メニューは御飯にみそ汁、白身魚が定番だった。育ち盛りの子どもにはとてもじゃないが物足りない。食事が終わると「ちょっと、行ってくるね」と言って松平邸に走り、二度目の夕飯をとるのが日課となった。そんな生活が5年も続いた。
「なにせ戦後の食べ物がない時代でしたから、弟に『二度も食べてずるい』なんて、うらやましがられたものです」
そんな恒孝さんにとって、歴史上の人物で憧れの人は誰ですか? と伺うと、「幼いときは、真田十勇士の大ファンだった」と振り返る。
「『憎き家康を猿飛佐助が退治しようと奮闘するのだけれど、どうもうまくいかない』。そんなことを懇々と祖父に説くんです(笑)。いつも、『そうかい』と頷きながらうれしそうに聞いてくれる。私にとって祖父は温かい存在でした」
家督について知らされたのは、学習院高等科に入ってからだった。以来、作法を学び、先祖の墓参りをし、東照宮を巡り、当主と して必要とされる素養を一つひとつ学んだ。家正さんが死去し、18代当主に就任したのは、38年のこと。23歳の若さだった。
恒孝さんは当主ではじめて民間企業で働き、生計を立てた人物でもある。
「16代当主・家達は貴族院の議長を30年務め、お国のために働きました。祖父・家正は外交官で駐カナダ公使などを歴任し、同じく貴族院議長を務めました。貴族院制度が廃止されたのが22年ですから、家正は最後の貴族院議長になります」
そんな時代背景もあり、恒孝さんは、当主になった翌年、学習院大学を卒業すると、会社員として日本郵船に就職した。現役時代は、年間25回海外出張するほど、グローバルなサラリーマンだった。同社の副社長、顧問を経て、45年間立派に勤め上げた。
大手企業をやめて気付いた日本を支える中小企業の力
当時の日本郵船の競合相手といえば、大阪商船か三井船舶(現在は二社合併し「商船三井」)に絞られ、交渉相手は海外企業がメインだった。外国の方が日本よりずっと近いという感覚だったといい、海の向こう側を見続けたことで、日本企業についてじっくり学ぶ機会が少なかった。
転機となったのは平成15年に「德川記念財団」を設立したこと。家に伝わる品々を守ることが目的だったというが、これをきっかけに全国から講演会の依頼が舞い込むようになった。さらに、24年に静岡商工会議所の最高顧問に就任したことで、地方の中小企業の人々と話をする機会が増えた。〝日本の文化とビジネスを支えているのは、日本を代表するような大企業だけではなく、地方の中小企業だ〟、各地の商工会議所の人々に話を聞きながら、そう思うようになった。
恒孝さんが長年携わってきた日本郵船の仕事は〝物を運ぶ仕事〟だ。ものづくりや職人魂に触れられるのは、恒孝さんにとって新鮮なことだったという。
「200〜400年と長く続く企業がいくつもあり、常に新しいことにチャレンジする姿に感銘を受けました。地元の商工会議所の方々とお酒を飲みながら語り合う。情熱を持って語ってくださるのはありがたいことですし、とても楽しかったですね」
改めて見直される江戸時代の大きな功績
昨年、徳川家康公没後400年を迎え、ゆかりの地である静岡、浜松、愛知県岡崎の3市を中心に、全国各地で1年間にわたって記念行事「家康400年祭」が開催された。グランドフィナーレには恒孝さんも駆けつけ、講演会を行うなど、精力的に活動した。
「日本には多くの東照宮が存在します。家康公を最初に祀ったとされる『日光』や『久能山』は有名ですが、その他の神社も規模の大小問わず400回忌を行ってくださいました。感謝の気持ちを込めて、私も可能な限り訪問させていただきました」
講演会で求められるテーマは、德川家の歴史や功績に関することが多い。江戸時代の最大の功績は260年の間、国内外で全く戦争を起こさず、平和を維持したことだ。「長い平和の中で熟成された日本の文明が、今日の日本の基礎となっている」と、恒孝さんは講演会や自著を通して伝え続ける。
島国の利点は、陸続きの国々に比べて、他国から攻撃されにくいことだ。海を渡って他国を侵略するには、陸続きの国より何倍も準備が必要だ。ナチス・ドイツは地続きのヨーロッパをあっという間に征服したが、島国のイギリスを侵略することはかなわなかった。
恒孝さんが江戸時代の平穏さを表すエピソードを聞かせてくれた。現代では考えられないが、江戸時代には人殺しはもちろん、盗みも発生しなかった〝30年間〟が存在したという。日本橋から銀座にかけて、さまざまな店が軒を連ねていた。一日の売上は、支店から本店へ現金で運ばなくてはならない。「運び屋」を担うのは、店の一番年下である12〜16歳の丁稚(でっち)と呼ばれる奉公人。ところが、店を出ると、大金が入った袋を放り投げて、たこ揚げや取っ組み合いをして遊んでいる。それにもかかわらず、放り出された現金を狙う泥棒など一人もいなかったという。
「泥棒にもメンツがありますからね。幼い子どもから金を奪う卑怯なことはしませんでした。店主も丁稚が遊んでいることを承知で任せていました。1時間で済むところを3時間も帰ってこなくてもにこにこしている。一日中、汗水垂らして働く子どもたちへのせめてもの配慮だったのでしょう。江戸文化とはそういうものでした」
かつて日本人が持っていた、「お互いに助け合う」精神を忘れてはならないと恒孝さんは念を押す。サラリーマン時代にニューヨークに6年ほど駐在し、50カ国を訪れたが、公共機関で高齢者に席を譲ったり、道を開けたりする姿はほとんど見なかった。電車で財布を落としたら戻ってくるということもまず考えられなかった。その点、日本人は優しい。
「先日、近くの交番横で友人を待っていたところ、道ばたで百円玉を拾ったという母子に出会いました。わざわざ交番に届けにきた母親は立派ですが、丁寧に親子の住所を書き留めていた警察官もまた素晴らしいですね」
長い歴史の中で、日本人がつくり上げてきた「互いに助け合う精神」が、今でもしっかりと根付いている。
「よく講演会にお呼ばれして電車で行ったり来たりしていますとね、大きな荷物を抱えた外国人をお見かけします。都心などは路線が複雑ですから、困っている人には、『Can I help you?』なんて必ず声を掛けるようにしているんです。『違うプラットフォームにいるから、向かい側に渡りなさい』とかね。とても喜んでいただけますよ」
最後に、今後の日本の在り方について伺った。
「無理に変わろうとしなくていいと思いますね。日本人が持つ気質を大切にして、にこにこ笑顔でいればそれでいいと思いますよ」
德川恒孝(とくがわ・つねなり)
德川宗家18代当主
昭和15年東京出身。29年德川家正に入籍、德川恒孝と改名。39年学習院大学卒業、日本郵船(株)入社。34年、36年ロンドン在住。日本郵船在籍中、2回にわたりニューヨーク勤務(計5年半)。平成14年日本郵船(株)代表取締役副社長退任、顧問就任。15年(財)德川記念財団設立、理事長就任。20年(財)WWF世界自然保護基金ジャパン会長就任。21年日本郵船(株)顧問を退任。24年、静岡商工会議所の最高顧問就任
写真・後藤さくら
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