まるで、その人が話しているかのようにすらすらと英語から日本語、日本語から英語へ、瞬時に的確な表現で訳す。その通訳は単なる翻訳ではなく〝伝えたい〟という長井さんの熱意が込もっているから分かりやすい。約半世紀にわたり、先進国首脳会議をはじめとする数々の国際会議の同時通訳者として活躍する長井鞠子さん。各国の要人、各界著名人には「長井通訳」のファンも多く、指名は後を絶たない。
偶然開けた通訳者への道
「16代会頭の稲葉興作さんはとても茶目っ気のある方で、表敬訪問でも常に面白いことをおっしゃるので、そのニュアンスをどう伝えようかと考えるのが楽しかったのを覚えています。また、15代会頭の石川六郎さんが何かのインタビューで私を〝信友〟と言ってくれたのもすごくうれしかったですね。とにかく歴代会頭はどの方のこともしっかり覚えていますよ。思い出もたくさんあります」
長井さんは日本商工会議所の歴代会頭との、これまでに通訳したエピソードを笑顔で語ってくれた。今や通訳者としては第一人者といえる長井さんだが、そこに至るまでには数多くの苦労があったようだ。
長井さんは宮城県出身。中学・高校と仙台市内のミッションスクールへ通った。「英語習得に力を入れている学校で、中学1年の1学期はひたすら音読し、正しい発音を身に付けるという授業でした。それがすごく楽しかったですね」。
高校3年の夏、交換留学生としてアメリカ・テキサス州ダラスで1年間のホームステイを経験する。当時はインターネットもなく、日本人も周りにいない環境。そのため英語を話さざるを得なかった。半年後には日常生活で不自由を感じない程度の英語力が身に付いていた。
「ただ、課外授業で裁判ものの映画を観たとき、法律の専門用語が全然分かりませんでした。天狗になっていた鼻をへし折られた感じでした」
もっと英語を勉強したい。そう思い、国際基督教大学(ICU)へ進学した。当時は大学紛争が始まりかけたころ。とりわけ政治意識が強いわけでもなかったが、学生集会へ参加し、そこで通訳を務めることもあったという。
そんなとき、「将来、通訳というのも良いかな」と思わせてくれたのが1964年の東京五輪での通訳経験だ。「水泳競技の記録を英語で伝えるという簡単な仕事でした。それでも自分が存在することで人と人をつなぐことができるという感触を味わうことができ、こういう仕事っていいなと思ったんです」。
とはいえ、通訳がまだ職業として確立されていない時代。通訳者になりたくても、一体どうすればいいのか分からなかった。
「企業へ就職するのも違う気がしていたし、故郷の仙台へ戻るのも嫌でした。父が〝東大の大学院へ行くなら東京にいてもいい〟と言うので試験を受けてみたけれど不合格。さあ、困ったと思っていた矢先、通訳の会社を立ち上げて間もないころだったサイマル・インターナショナルの創立メンバーが声を掛けてくれたんです」
契約書などは無く口約束。しかも給料は歩合制。仕事がどれだけ入るのかも分からないといった状況だったが、驚くほど不安はなかった。「給料は当時の大卒初任給よりは多少いいよと言うので、『ま、いいかな』と(笑)。今もそうですが、かなりの楽観主義なんです」。
プロとしての初仕事は忘れもしない低温工学国際学会。アメリカ人科学者が英語で行う発表の通訳を担当した。事前に原稿を渡されていたものの、せっかくの〝デビュー戦〟、絶対失敗したくない。そこで科学者のところへ出向き、「原稿通りに話してくださいね」と何度も念を押した。そして、その科学者のスピーチが始まったが、「私は原稿通りに話します。余計なことはしゃべりません。なぜならば通訳者と固い約束を交わしたからです」とコメントしたのだった。会場は笑い声でいっぱいになった。「本当に恥ずかしかった(笑)。苦い思い出の一つです」。
しかし、そこから今に至るまで仕事が途切れることはほとんどなかったという。そして、専門的な会議から文化交流まで、通訳者として場数と経験を踏めば踏むほど着実に仕事は増えていった。そうしているうちに世界主要国の首脳が集まるサミットなど国際的な会議に参加する機会も多くなっていく。
「通訳者がまだ足りない時代だったこともあり、ありがたいことにいろんなところから声が掛かりました」
機械的に訳すのではなくメッセージを伝えたい
さまざまな人の通訳をする中で、今でも時折思い出すのがフランスのフランソワ・ミッテラン元大統領だと言う。「彼のスピーチを聞いているだけで品格を感じました。学識の深さ、教養の豊かさが伝わってくる。決してそれらをひけらかすのではなく、本当に自分が言いたいことを伝えるため、フランスの哲学者の言葉を引用したり、歴史的事実に例えたり。何より論旨が明確で話に終始ブレがない。彼の政治家としての揺るぎない信念のようなものを感じずにはいられなかったですね」。
今年6月、ベルギーで行われたG7ブリュッセル・サミットでは、アメリカのオバマ大統領の話しっぷりにも感銘を受けたという。「議論の処理の仕方が素晴らしいと感じました。話の展開の中で、どう切り込んでいくかが会議の場では大事なのですが、本当に切れ味よくスパッと意見を返すし、しかも実に分かりやすいんです」。
もちろん、こうした各国の要人だけではなく、国内外の非政府組織(NGO)などで人道的な活動をしている人たちのスピーチに心を打たれることも多いそうだ。「心を込めてその仕事をされているんだということが伝わってくると、私自身もつい感情移入してしまい熱くなってしまいます」。
通訳はあくまでその人が言ったことを一切編集せず、そのまま伝えるものだ。しかし同時に、ただ機械的に訳し、伝えるだけでは不十分だとも思っている。
「私は、話し手の個性や言葉のニュアンスも含めて、その人が言っていることをちゃんとメッセージとして伝えることが大切だと思っています。例えば、その会議は場合によっては徹底的な討論も辞さないというものなのか、それとも親睦を目的としたものなのか。そういった状況を慮る力も通訳者には必要です。コメントを勝手に編集してはいけないけれど、ちゃんと思いが伝わる工夫をしないといけないと考えています」
長井さんは、2020年夏季五輪開催地選考にも関わっていた。立候補各国のプレゼンが終わったとき「絶対に獲れた。日本のプレゼンターは皆、最高のプレゼンをしました。もしこれで駄目なら諦めがつく、そう思えるほど気持ちが入っていました」と振り返る。そして、開催国が日本に決定した後、IOC(国際五輪委員会)の委員から「日本人にこれだけパッションがあるとは思わなかった」と言われたという。
「熱意が五輪開催を日本にもたらしたっていうことですよね。コミュニケーションの根幹にあるのはパッション。伝えたい、聞いてほしいという気持ちを少しでも意識すれば、言いたいことはちゃんと伝わります。通訳でも普通の会話でも共通して大事にしなくちゃいけないところだと思います」
ベストを尽くしても失敗することもある
「今年のG7で、オバマ大統領の通訳をしているとき、彼の思考に自分が乗っかったような感覚になって。そんな具合に〝よし、乗れた!〟という、その人に乗り移ったような、その人になり切ったような感じになるときがたまにあるんです。そういうときはいい訳ができている気がしてうれしいんです。それが醍醐味かな」
長井さんは通訳者としてのやりがいをこう語る。また、彼女は準備を徹底的に行うことでも有名だ。事前に資料を手に入れて勉強し、専門用語など気になる用語はノートに書き出し、頭に入れる。もちろん、事前に原稿があれば、それも入手し、徹底的に読み込む。
「本当にベストを尽くして準備してもね、今でも失敗をすることはあるんです。先日もアフリカの途上国の援助活動をされている方の同時通訳をしていたときのこと。『しょうのう』と言うので、てっきり虫よけや芳香剤に使われる『樟脳』だと思ったんです。英語で『camphor』というのも知っていたので、そう訳していたら、どうもおかしい。その直後、その人が話す『しょうのう』が『小規模農家』の略だと気付き、慌てて訂正しました。つまり、仕事に努力と準備は絶対に必要ですがどんなに努力と準備をしても失敗はあるのです。だからめげないと決めています。落ち込んでも3日(笑)。ずっとめげていたら仕事はつまらなくなるだけだし、時間ももったいない。次にどんな楽しい仕事が待っているのか分からないんだからと気持ちを切り替え、胸を弾ませて次に進みます。そうやってきたからこそ、今もこの仕事をしていられるんだと思います」
いろいろな世界に興味がある長井さんは好奇心のかたまり。時折アンサンブルでビオラを奏でる。映画もお酒もマージャンも大好きといった具合で趣味も幅広い。「何でも楽しめるし、気持ちの切り替えも上手いほうですね。だから毎日、現場が変わる通訳という仕事は性に合っていると思います。世間が必要としてくれる限り、続けていきたいです」。
長井鞠子(ながい・まりこ)
会議通訳者
1943年宮城県生まれ。国際基督教大学卒業。67年、日本初の同時通訳エージェントとして創業まもないサイマル・インターナショナルの通訳者となる。以後、日本における会議通訳者の草分け的存在に。先進国首脳会議を始めとする数々の国際会議やシンポジウムの同時通訳を担当。政治・経済のみならず、文化、芸能、スポーツ、科学他、あらゆる分野の通訳として活躍を続ける。著書に『伝える極意』(集英社新書)
写真・山出高士
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