1988年のソウル五輪でシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)のソロとデュエットで銅メダルを獲得した小谷実可子さん。現在はスポーツコメンテーターや日本オリンピック委員会(JOC)理事としてトップ選手を支える傍ら、週に一度クラブチームで指導する。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、延期となった東京五輪・パラリンピックに対し、決意も新たに選手たちへエールを送る小谷さんを訪ねた。
日本と米国の差を知ることで強くなれた
小谷さんは才能に恵まれた人だ。164㎝、53㎏の抜群のプロポーションはモデル出身の母親譲り。小学4年のとき、水泳のコーチに「シンクロをやらない?」と声を掛けられ、3カ月の練習で全国大会(10歳以下の部)で優勝し、この道に入った。卒業文集に「コマネチのように人々の心に残りたい」と書いたのは、当時から五輪の出場の夢を描いていたからだ。
最初に目指した五輪は、84年のロサンゼルスだった。シンクロナイズドスイミングが初めてオリンピック正式種目となった記念すべき大会だが、当時の日本は米国、カナダに次ぐ世界3位の位置付けだった。「トップを目指したい」と考えた小谷さんは15歳のとき単身で米国に渡るが、日米の指導法の違いに驚いたという。日本がスポ根・ど根性重視の‶しごきの指導法〟だとしたら、米国はほめて伸ばす指導法。「私には米国式が合っていたみたい」と話す小谷さんは伸び伸びと才能を開花させた。しかし、いざ日本に帰国すると、思うように得点が出ない。「日本では基本がしっかりしていないと点は取れないよ」と監督から助言を受けても、「私は日本より格上の米国で評価された。日本の評価基準が遅れているんだ」と素直になれず、一時は「辞める」とコーチに申し出たこともあったという。それでも水の中に入ると、シンクロが楽しくて仕方なかった。
結局、憧れだったロサンゼルス五輪をテレビの前で見ることとなった小谷さんは、「とにかく情けなかったですね。海外にまで行ってトレーニングを積んだのに、私は何やってるんだろうって。このままでは終われないと思いました」。プライドを捨て一から出直そうと決意したのは、帰国から4年目のこと。基礎練習に励む小谷さんを支えたのは、当時憧れていた米国チャンピオンから贈られた「Things happen for a reason(全ての出来事には理由がある)」という言葉だったという。血がにじむような努力は徐々に実を結び、翌年、日本選手権で2位以下に大差をつけて優勝した小谷さんは、文句なしにソウル五輪代表の切符を手に入れた。
「神様は私に遠回りをさせたのです。努力もせずチャンピオンになれていたら、自分に足りないところを冷静に受け止めて努力する大切さを学べませんでしたから」
自分らしく輝く ほめて個性を伸ばす指導法
現在は、毎週土曜日に自ら水に入り子どもたちにシンクロを教えている。そこは、トップアスリートを育成する場ではない。手づくりのスイムショー(発表会)を目標に、シンクロが大好きな子どもたちの個性を伸ばす場だ。大切にしているのは、米国で学んだ「ほめる指導法」だ。「体は硬くても跳躍力がある子にはジャンプで見せ場をつくります。泳ぎは苦手でも表情がきれいな子には、表現力を磨く指導をします。演目の中で、たとえ脇役でも自分の存在価値を見出し、チームで成し遂げることの大切さを学んでほしい。スポーツは目標を持って心身を磨くための素晴らしいツールです。彼女たちが将来大人になったときに、あの時の自分は一生懸命だったなと思ってもらえる時間を、シンクロを通してつくっていきたい」。小谷さんはほめどきを見逃さないよう、アンテナを張るように子どもたちを観察しているという。「ほめられて自信を持った子どもは、魔法にかかったみたいに輝き始めるでしょう。あの瞬間がたまらなく好き。子どもたちから教わることが多いコーチ職は、私の人生になくてはならないものです」
東京オリ・パラの延期は日本へのリスペクト
コーチ以外にも、活動の場を「スポーツ全般」に広げた小谷さんは、オリンピックの招致活動に長野冬季大会から携わり、2008年の大阪、16、20年東京と計4回も関わってきた。中でも、長野と20年の東京は「勢いが違った」と語る。
「スポーツ界、経済界、政界など各界のトップが招致を勝ち取るという目標に向けて‶ONE TEAM〟になりました。社会的地位など気にせず、みんな対等な関係になりました。そしてミッションを終えたら自然とハグしていたんです。人は一つになるとこんなにも力が持てるのだと実感した出来事でした」。そうした経験からか、小谷さんには偉ぶったところがない。誰にでも笑顔を向ける彼女と触れ合った人が皆、口をそろえて「美しい人」と言うのは外見だけではなく内面を含めてのことだとわかる。
3月、国際オリンピック委員会(IOC)は臨時理事会で東京五輪の大会延期を決めた。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、世界中の選手が十分に練習できない上に、五輪の代表権をかけた選考会も中断されたままだった。JOC理事である小谷さんの元にも「やるもやらないも早く決めて発表してほしい」という選手たちの声が届き始めていたという。
大会延期を決めたIOCの決断に、小谷さんはポジティブな姿勢を見せる。
「開催国が日本だったからこそ、IOCは私たちを信じて延期という選択をしてくれたのだと思います。そこは誇りを持っていい。仮に国立競技場の建設が遅れていたり、何かしらの‶準備不足〟が露呈していれば、IOCは中止を決めていたはずです」
しかし、延期となれば選手たちの負担は大きいだろう。「それは否定できません。シンクロの選手でいうと、一日の半分は水の中で泳いでいるはずの彼女らが陸で自分の体重を支えなくてはならないのですから、当然感覚は鈍ってきます」。それでも「Things happen for a reason」の精神で選手たちは前を向き始めているという。
「『コロナの影響で練習ができないからこそスポーツのありがたみを知った』『心を充実させることができた』と選手は前向きですよ。困難にぶつかったときに工夫したり助けあったりする中で、人は成長していくものです」と小谷さん。
「JOCの立場としては、メダルの色にこだわらないわけにはいきませんが、結果が全てではありません。今大会は新型コロナという苦難を乗り越えて大舞台に立つわけですから、東京オリ・パラが成功できたら、日本のみならず‶世界みんなの成功〟といえるでしょう」
5月、うれしいニュースが舞い込んだ。FINA(国際水泳連盟)が、21年に予定していた世界選手権を22年5月に福岡市で開催すると発表したのだ。「ステイホームでコロナ太りしている場合じゃないですね。さあ、動き出しましょう」。そう言って小谷さんはしなやかに立ち上がった。
小谷 実可子(こたに・みかこ)
スポーツコメンテーター
1966年、東京都生まれ。
85年のパンパシフィック選手権ではデュエットで優勝、ソロで2位獲得。88年のソウルオリンピックでソロ・デュエットとも銅メダルを獲得。92年に引退後はシンクロの普及活動・指導の傍ら、JOC、NAOC広報委員を、93年よりTBS番組「情報スペースJ」のスポーツキャスターを務める。96年からは国際オリンピック委員会、またアジアオリンピック評議会の選手委員にも任命されている
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