東京2020パラリンピック競技大会の自転車競技2種目で、世界の頂点に立った杉浦佳子さん。その偉業には「日本自転車史上初」「日本最年長金メダリスト」などのキャッチフレーズが付いて回る。だが、45歳で障がいを負ってしまったのも自転車レースであり、5年後に女王の座につくとは誰一人予想できないほどの大惨事だった。
きっかけは近所にあった競技用の自転車ショップ
「子どもの頃から運動は好きで、中学、高校とバスケットボール部でしたが、運動神経がずば抜けていいタイプではなく、体育の成績は小学生の頃は5段階評価で2でしたが、頑張って4になる程度でした。スポーツ選手になりたいなんて思ったこともなく、社会人になってからは、薬剤師として働きつつ家事、育児に追われる毎日でした」
〝スポーツ好きの普通の人〟として自身のことを語る杉浦佳子さんだが、杉浦さんが興味を持つスポーツはどれもなかなかハードだ。20代でフルマラソンをなんとか完走できたので、30代ではトライアスロンへ。たまたま近所に競技用の自転車ショップがあったことから自転車にのめり込み、東京から実家のある静岡県掛川市まで約240㎞を自転車で行くなど、スポーツ歴に関するどの話題も〝普通〟を軽々と超えていく。「道に迷っただけで本当は240㎞もかからないんですよ」と慌てて訂正するが、驚いているのは距離ではなく、行動力そのものであると分かると屈託なく笑った。仕事と家事、子育ての合間にトライアスロンの大会に出場し、40代では世界一過酷な競技といわれるアイアンマンレースにも挑戦しようとしていたというから恐れ入る。
「今振り返ると無理しすぎていましたね。仕事も責任ある立場になっていましたし、家事や子育てにも手を抜きたくなくて、朝4時台に起きて、お弁当をつくって、仕事に練習にとフルスパートで平均睡眠時間は3、4時間でした」
そして惨事は起きた。2016年、45歳で出場した自転車レース時に転倒。脳挫傷や外傷性くも膜下出血、右肩の複雑骨折など、生死をさまよう重傷を負う。
事故の記憶がないから臆せずレースに出られる
自転車レースに出場する今の杉浦さんの勇姿から「重傷を負ったとはいえ……」と楽観的に考えるかもしれないが、事故による障がいは決して軽度ではなかった。診断は、高次脳機能障がい。右半身にも麻痺(まひ)が残った。事故の記憶がないどころか、10分間記憶を維持することもできず、家族のことを思い出すのに1、2週間を要した。
「主治医に毎回『はじめまして』とあいさつしていたそうです。でも、なぜか母のことと宮古島のトライアスロンの大会に出ることだけは覚えていて、何度も病室から抜け出そうとしては周囲を困らせたと聞いています」
笑顔を交えて語るものの、自分の体に起きたことをすんなり受け入れられたわけではない。主治医に、なぜそのまま死なせてくれなかったのかと詰め寄ったこともあったという。失意のどん底にあった杉浦さんを、薬剤師の友人は自作の薬剤クイズを毎日のように杉浦さんのスマートフォンに送り、主治医は休日も出勤して杉浦さんから目を離さなかった。
「寝たきりになるかどうかの瀬戸際だったそうです。今も私の脳のCTスキャンを見ると、どのお医者さんも驚愕(きょうがく)します。この脳の状態で動ける、ましてスポーツをするなんてありえないって」
リハビリの一環で乗ったエアロバイクで、自転車に乗る楽しさもよみがえってきた。
「パラサイクリングを見学した時に、入院していた病院の理学療法士さんが連盟のトレーナーをしていました。パラサイクリストの石井雅史選手から『やればできるよ』と背中を押してもらえて、事故の記憶がないので恐怖心なく始めちゃいました」
持ち前のチャレンジ精神も戻っていった。三半規管が機能していないために自転車に乗ってバランスを取ることは至難の業だが、自転車のブレーキを左右変えるなど、身体能力の回復とともに自転車の仕様にも改良を重ねた。そして事故に見舞われた翌年の17年に国際大会に初出場し、同年の「UCIパラサイクリング・ロード世界選手権」タイムトライアルで優勝という驚異的な成果を上げる。
周囲の支えがあったから大会出場を決意できた
自転車競技で杉浦さんは、選手が一人ずつ出走してゴールタイムを競う「個人タイムトライアル」と、選手が一斉にスタートする「ロードレース」をそれぞれ制し、東京2020パラリンピックでもメダル候補として名前が上がる。日本パラサイクリング連盟主催の強化合宿にも参加して力をつけていくのだが、そんな杉浦さんの前に立ちはだかったのが、身体の不調でも強敵でもなく、世界的なパンデミックだ。コロナ禍による大会延期、開催の賛否のうねり、その中で自転車に乗る意味を自問自答し、50歳で出場という年齢も追い打ちをかけて一時は引退も考える。
「一人だったら出場を辞退していました。出場できたのは、これまでサポートしてきてくれたコーチや栄養士、練習や合宿、大会を業務とみなしてくれた会社や職場の皆さんなどの支援、指導に応えたい一心からです」
コーチから毎日届く練習メニューをこなし、栄養士の指導による食事にも徹した。特に気を付けたのが睡眠時間で、平均8〜9時間を維持し続けたという。
「期待がプレッシャーじゃなく、ごちそうという感じで頑張れました」
その努力が実を結ぶ。女子個人ロードタイムトライアル、続けて女子個人ロードレース39㎞でも金メダルに輝く。コーチの作戦通りに走れた結果というが、杉浦さんには「記憶する」というハードルがある。コースは試合の2日前に発表され、そこからコースを覚えなければならない。杉浦さんは経路だけではなく、道路の傾斜角度、がたつき、マンホールの位置など、他の選手が驚くほど詳細なロードマップをつくり、コーチとの試走を再現することだけに集中して試合に挑んだ。
「手にした金メダルは、すぐコーチやサポートスタッフの首にかけて喜びを分かち合いました。みんなで勝ち取ったメダルです。そして、手術から5年もかかっちゃいましたが、主治医の所にメダルを持って、生かしてくれたことへのお礼も伝えることができました」
49歳ではなく切りのいい50歳だから注目されたと喜び、最年少記録は一生に一度しか取れないが、最年長はその限りではないと語る。身体機能の回復による〝卒・パラ〟も意識しつつ、未来を見据える。
「前に、東京2020が中止になったら次のパリ大会を目指すって言ったこと、コーチが覚えているんですよ。それに向けて今日も練習メニューが届いて……。届くからやる。ただその繰り返しです」
結果は後からついてくる。それを実証する杉浦さんの挑戦は続く。
杉浦 佳子(すぎうら・けいこ)
【東京パラリンピック金メダリスト】
1970年生まれ。パラサイクリスト。2016年ロードレース大会中の転倒による高次脳機能障がいなどの重傷を負う。懸命なリハビリを続け、17年よりパラサイクリング競技に出場。同年、世界選手権タイムトライアルで、翌18年は世界選手権ロードレースで優勝。日本人初のUCI(国際自転車競技連合)の年間表彰の受賞者の一人に選ばれる。東京2020パラリンピックでは、女子個人ロードタイムトライアルC1-3と女子個人ロードレースで、日本人自転車史上初の2冠を達成する。所属は楽天ソシオビジネス
最新号を紙面で読める!