2022年は、日本商工会議所創立100周年に当たる。そこで、今号は記念企画第1弾として、創業100年以上を誇る老舗企業の経営者であり、地域の商工会議所会頭も務めている当主に、創業以来取り組んできた経営の極意と会頭としての地域への思いを語ってもらった。
代々受け継いだ「まごころサービス」と付加価値印刷で新たな100年を目指す
福岡県中間市の印刷会社・日高印刷所は、4代に受け継がれてきた「まごころ」を大切にし、紙の印刷市場が縮小する中、付加価値を高めて提供することで地域の印刷会社として生き残ろうとしている。
筑豊の炭鉱王に帳票を納めるため活版所を創業
日高印刷所は今年、109周年を迎える。代表取締役の日高慶太郎さんは四代目、中間商工会議所会頭でもある父親の日高教夫さんは三代目だ。
同社の前身、伊藤活版所の創業は1913年。創業者(初代)の伊藤純一郎さんは、慶太郎さんから見て母方の曽祖父に当たる。教夫さんは、二代目である父(慶太郎さんから見て祖父)の日高六太郎さんから聞いた話として、創業のいきさつをこう語る。
「筑豊炭田の一角を担った中間町(当時)には、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤傳右衛門が創業した大正鉱業という会社があり、石炭の採掘・販売で潤っていました。初代は、傳右衛門の遠縁にあたる人物で、『印刷所を始めれば大正鉱業から日報や出荷伝票を印刷する仕事がもらえる』と言われて活版所を始めたと聞いています」
その言葉通り、伊藤活版所は大正鉱業と共に発展していったが、息子が後を継がなかったため、婿に当たる六太郎さんが大学職員を辞めて二代目となった。
戦前、戦後とエネルギーの主役が石炭だった間、商売は順調だった。だが、50年代から60年代にかけてエネルギー革命が起こり、主役が石油に交代したことで石炭産業が衰退、大正鉱業の経営も傾いた。教夫さんは大正鉱業末期(閉鎖は64年12月)のころを覚えている。
「父が嘆いていたのは、代金の支払いが滞りがちになったことで、年商分以上の未払金が発生していたそうです。うちだけでなく、大正鉱業を相手に商売をしていた商店なども困り果てていました」
教夫さんは67年、20歳の時、伊藤活版所から社名が変わった日高印刷所へ入社した。
「印刷の仕事をしたかったわけではないのですが、年を重ねた父がつらそうに働いている姿を見て、手伝う気持ちになったのです。そのころは印刷機械の更新が滞っていて、新しい機械を入れた他社に追いつくのが大変でした」
二代目が病気がちになり、教夫さんは85年、36歳で三代目の社長に就任する。ちょうど印刷方式が活版印刷から、現在も主流となっているオフセット印刷へと徐々に切り替わっていった時期と重なる。
「活版印刷とオフセット印刷の両方の機械をそろえなければならず、設備投資にもお金がかかりました。オフセット印刷の仕事が増えると、活版印刷の工程に必要な活字を拾う文選や原稿に指定のある体裁に並べて組む植字の仕事をしている職人さんたちの仕事が減ってしまうので、人員配置をどうするかなど、いろいろな課題がありました」
一方で、印刷物の受注は、教夫さんの人脈により増えていった。
「青年会議所を通じて高校の先輩などとのつながりができて、選挙関係の印刷物の仕事を受注することができたのです。『はよ持ってこい』という短納期の注文もありましたが、従業員に徹夜仕事をさせるわけにはいかないので、私が夜中に働いて納期に間に合わせました」
納期を守ること。作業服を着て従業員と同じように働くこと。社長だからと天狗(てんぐ)にならないこと。教夫さんのそうした心掛けが信用につながっていった。
「当時はまだ印刷所のデジタル化はほとんど進んでいませんでしたが、いずれデジタル時代が来ると思い、息子(慶太郎さん)に、コンピューターの勉強をしなさいと東京へ送り出しました。その頃は、会社は長男が継ぐのが当たり前の時代でしたので、いずれ帰ってくると思っていました」。慶太郎さんも「継いでほしいという父の思いはうすうす感じていたので、大学卒業後の就職先は同業の印刷会社を選びました」と話す。
慶太郎さんは2002年、27歳で入社、営業を任せられた。教夫さんは戻ってきてくれたことに喜び、働きぶりを見て安心したと言う。16年、慶太郎さんは四代目の社長に就任した。
ニッチな市場を攻めて地域印刷会社として生き残る
印刷産業は冬の時間を迎えている。同社の場合、スーパーのチラシのような単発の需要は激減したが、長年取引を続けている企業の帳票や名刺といった定期的な印刷物の受注は順調だ。慶太郎さんはこうした仕事をベースにして、「紙を通じた企業とお客さまとのコミュニケーションはなくならないと思っているので、紙という視点を変えずに、ニッチなところを攻める」と生き残り戦略を語る。
印刷機械は、ものづくり補助金を活用してオンデマンド印刷機を導入した。オンデマンド印刷とは、顧客が必要とするものを必要な時に必要な数だけ印刷することで、印刷のための版をつくらず、デジタルデータをプリンターで印刷する方式。大量印刷には向かないが、顧客の多様な要望に応えることができる。
「これからはもっとデジタル化を加速させて、インターネットを使った販路拡大に力を入れていきます。当社の強みを生かせるニッチな分野、例えば建築関係の複写伝票に特化した専用サイトを作成して攻めていこうと考えています。また、お客さまに寄り添い、時にはコンサルをしながら丁寧な仕事をしたり、付加価値を高めた提案をしたりできれば、地域の印刷会社として生き残れるでしょう」
会社が109年続いた秘訣(ひけつ)は「まごころサービス」だと言う。三代目までは言葉として残していなかったが、慶太郎さんは「日高印刷所のまごころ五箇条」にまとめ、朝礼のときに唱和し、ホームページでも公開している。そこに100年を生き抜いた企業の秘密が凝縮されている。
会社データ
社名:有限会社日高印刷所(ひだかいんさつしょ)
所在地:福岡県中間市中間1-4-16
電話:093-245-0214
HP:https://www.hidaka-print.com/
代表者:日高慶太郎 代表取締役
創業:1913年
従業員:8人
【中間商工会議所】
※月刊石垣2022年1月号に掲載された記事です。
中間市の財政悪化のため景気が最悪の時に元気な中間市、元気な商工業者を目標に会員企業に寄り添った支援を行うことを目指して会頭に就任しましたが、すぐコロナ禍に見舞われ、全ての事業を中断し、会員企業の支援に職員一丸となり当たりました。元気な中間商工会議所を目指して今後も頑張っていきます。スポーツで元気を!とU-10卓球大会や少年ラグビーチーム育成など、子どもたちの育成に力を入れています。
日本商工会議所の創立100周年おめでとうございます。ポストコロナに向けた地方経済はどうあるべきかの指針があればセミナーなどで教えてほしい。(文・日高教夫会頭)
最新号を紙面で読める!