庭師を「天職」と言い切る、生まれも育ちもスウェーデンの村雨辰剛さんは2014年、26歳で念願の日本国籍の取得を果たす。モデル業や俳優業と引っ張りだこ。二足の草鞋(わらじ)どころか何足もの草鞋を履き、全てに全力を尽くそうと懸命だ。なぜ北欧から遠く離れた日本を選んだのか。村雨さんの、夢をかなえる飛び抜けた行動力と数々の決断に迫った。
根っからの日本好きで付いたあだ名は「日本人」
両親のどちらかが日本人というわけではなく、周囲の大人や同級生から影響を受けたわけでもない。村雨辰剛さんは自発的に日本に興味を持った。
「僕が育ったのは小さなまちで、子どものころから、早くまちを出たい、知らない世界を見てみたいという気持ちが強くありました。アジア、その中でも日本の個性的な文化や歴史はスウェーデンやヨーロッパ諸国とも違っていて、"はてな"だらけ。はてなの多さが面白くて興味を持つようになりました」
中学生になって戦国武将の生き方に強く引かれた。中でも、諸説あるものの「敵に塩を送る」のいわれとなり、敵であっても苦境を救ったとされる上杉謙信の武士道精神には感銘を受けたという。
「周囲でも日本のアニメや漫画、ゲームが好きな子はいましたし、僕もその一人です。でも、ほかの子と大きく違ったのは、日本という国そのものに興味があって、日本語を覚えたい、話したいという気持ちがあったこと。16歳のころには本格的に日本語を覚えたいと、学校の休み時間に一人辞書を開いては日本語を暗唱していました」
そして付いたあだ名は「日本人」。変わった子だったと振り返るが、周囲から向けられる視線は冷たくない。スウェーデンは自由主義で、子どもの主張を尊重して個性を伸ばす教育が根付いているからだ。だが、思いを共有できる友も、日本語を話せる場もない。そこで村雨さんは当時あった日本サイトのチャットルームにアクセスし、日本人との交流を図った。日本語を使って相手の年齢も話すテーマも日々変わるチャットに夢中になり、素性を明かせるほど親しい友人ができると、そのうちの一人から「そんなに日本に来たいのなら」とホームステイに誘われた。警戒心より好奇心が勝った村雨さんの返事は一択、「YES」だった。
生活のためではなく日本の伝統的な仕事に就きたい
数週間のホームステイではなく、希望した期間は3カ月。さすがにスウェーデンでも進級が難しくなる日数だが、村雨さんが取った行動は校長への直談判で、ホームステイ中の通信教育の承諾を取り付けた。さらにホームステイ先近くの複数の高校に問い合わせては、日本特有の"部活"の参加もかなえる。日本家屋で和食中心の食生活を送り、ホームステイ先が鎌倉に近いことから風情あるまち並みや神社仏閣の存在も日常と化した。見ること、聞くこと、やること全てが刺激的なホームステイは村雨さんのその後の方向性を決定づけた。日本への移住だ。
「観光と移住はもちろん違います。でも16歳だった僕は、ホームステイは移住を見据えた機会と捉えていました。日本で暮らせる。そう確信を持てた経験になりました」
近年、日本のライフスタイルは欧米化している。それでもヨーロッパ諸国を旅したことのある村雨さんから見た日本は、どの国とも違う個性を放ち、魅力的に映った。
高校卒業後、アルバイトで渡航費を稼ぎつつ、インターネットを活用して"就活"し、名古屋で英語講師の職を得る。
「スウェーデンでは日常で英語を使う機会が多く、英語は普通に話せます。日本に来て3~4年は英語講師をしていました」
2011年、東日本大震災時に家族が心配したこと、ちょうど講師の契約が切れたことが重なり、一度はスウェーデンに戻る。これが村雨さんの大きな転機となった。
「将来をじっくり考える時間となり、日本で日本らしい職に就くという決意を新たにしました。母から『いつでも戻れる場所があるから』と言って背中を押してもらえたのも心強かったです」
再び日本に戻り、求人誌でたまたま見つけたのが造園のアルバイト募集だ。日本庭園の設計・施工や管理に携われる仕事に、村雨さんは引きつけられた。
庭師と芸能活動を両立して個性的な国、日本を探究
「日本庭園は僕にとっては美術館そのもの。徒弟制度は日本固有の文化であり、心技体を伝えるには理にかなった教え方ではないかと考えていました。庭師はまさに日本の美と伝統を体験できる理想的な職業でした」
アルバイトではなく、弟子入りできる造園業者を探すべく、相談したのがハローワークだ。担当者が個人的に造園業者を知っており、運良く弟子入り先が決まると、数年後、村雨さんはさらにギアを一段上げる。日本人として生きていく覚悟も固め、その気持ちの退路を断つべく日本国籍の取得をするのだ。親方に命名を頼むものの「荷が重すぎる」と断られ、親方の父親が好きな歴史小説家の名から姓を「村雨」とし、「辰」は村雨さんの干支から、「剛」は親方の名からもらった。
14年、26歳で村雨辰剛という正真正銘の日本人となる。
「親方のもとで5年間働きました。寡黙で褒めて育てるタイプではない親方でしたが、真摯(しんし)に庭の美を追求される方で、作業も丁寧。今でも胸に刻んでいるのは、安全にきれいに、そして手早く仕事をすること。庭師は大変なことも多いですが、自然に触れることで精神的な豊かさを得られ、お客さまに喜んでもらえるクリエーティブな仕事です。とてもやりがいがあって、庭師は天職。そう思っています」
だが、日本庭園をつくるのではなく、その逆の仕事も少なくない。その現状にいたたまれず、村雨さんは日本庭園や庭師の魅力をSNSで発信するようになっていった。
「語学講師時代から時折モデルや翻訳のバイトをしていたのですが、テレビ出演の話も舞い込むようになり、芸能事務所に所属する縁も生まれました」
庭師と芸能活動は仕事内容がまるで違うが、相乗効果で今までにない展開が広がっていった。
「役者経験がほとんどない中、NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』で米国人将校役を演じました。今年はNHKドラマ10『大奥』で蘭方医の青沼役です。セリフ覚えは大変ですが、裃を着る機会をいただけるなどワクワクする経験はそれ以上に多くあります」
庭師としても21年に淡路花博20周年記念「花みどりフェア」で「国生みの庭」をプロデュースし、注目を集めた。
「庭師は天職ですが、今後も芸能活動と両立するつもりです。日本には『出る杭(くい)は打たれる』という諺(ことわざ)がありますが、世界で評価されるのは個性、むしろ出る杭です。日本には魅力あふれる個性がたくさんあります。僕の活動を通して気付く人が増えたらうれしいですし、僕自身もいろいろな体験を通して日本を探究していきたいです」
好奇心を糧に、村雨さんは活動の枝葉をさらに広げていきそうだ。
村雨 辰剛(むらさめ・たつまさ)
【庭師】
1988年生まれ。スウェーデン出身。19歳で単身日本に移住。語学教師を経て23歳で造園業に飛び込み、庭師に転身。2014年26歳で日本国籍を取得して村雨辰剛に改名する。18年にNHK「みんなで筋肉体操」、21年NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」、23年NHK総合「大奥」に出演。著書『僕は庭師になった』(クラーケン)、『村雨辰剛と申します。』(新潮社)がある。YouTube「村雨辰剛の和暮らし」で築60年以上の日本家屋での愛猫との暮らしを配信している
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