建築家・坂 茂さんは数々の大規模な名建築を手掛けるが、目にするのは被災地での活動であることが多い。「紙管(しかん)」という紙素材を使った仮設住宅などで災害支援を続け、2014年には建築界のノーベル賞とされるプリツカー賞に輝いた。被災地に自ら赴き、状況を見極め、建築家としての最善を尽くす。坂さんの支援活動に対する思いを聞いた。
ルワンダ難民支援に向けアポなしで国連に直談判
名前の前に「世界の」を冠する日本人建築家は数多くいる。坂 茂さんもその一人だ。静岡県富士山世界遺産センターやフランスの美術館ポンピドゥー・センター・メス、スイスのオメガ・スウォッチ本社など世界に知られた名建築は数多い。国内の直近の作品でも、ししいわハウス軽井沢(長野県)やスイデンテラス(山形県)などのリゾートホテル、2023年3月に開業した美術館、ヴィラ、レストランから成る複合施設「SIMOSE」(広島県)など、独創的かつ自然と調和した大規模建築を手掛けている。
だが、坂さんはこれらを「普通の仕事」と呼ぶ。同時並行で心血を注ぐ仕事として、被災地の仮設住宅や避難場所の間仕切りシステムの開発・提供などの人道的支援活動がある。後世に残る建築物とは真逆の、近い将来撤去されることが前提の建築に、坂さんは30年前から取り組んでいる。なぜか。
始まりは1994年、週刊誌で目にした衝撃的な写真だという。
「それはルワンダの民族紛争による200万人以上の難民が暖を取れず、毛布にくるまって震えている光景でした。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が支給した仮設テントはビニールシートに近隣の森林の木を切って支柱として活用したため、森林破壊を引き起こしていました。そこで国連は木の代わりにアルミパイプを支給しましたが、それらを売ってまた森林伐採を始めました。それを解決するため、紙管を使う改善策を手紙に書いてスイスのジュネーブにあるUNHCR本部に送りましたが、返事はいっこうに来ません。そこでジュネーブの本部にアポイントも取らずに向かいました」
この思い切った行動が、後の坂さんの建築家人生を大きく変えた。
反対されるのが当たり前「前例」がないならつくる
そもそも坂さんは中学時代に建築に興味を持ち、高校卒業後に渡米して、ニューヨークの名門クーパー・ユニオンで建築を学んでいる。85年に帰国し、坂茂建築設計を開設したのは28歳と若い。
「そうは言っても実務経験のない無名の若手建築家に、建築の依頼なんて来ません。当初は展覧会の企画や会場構成の仕事がほとんどで、大きな転機は86年にフィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの展覧会会場の設計をした時でした。アアルトらしい木をふんだんに使った会場にしたいと思ったのですが予算はなく、大量に木を使えたとしても展覧会終了後は廃材になってしまいます。そこで着目したのが事務所にあったトレーシングペーパーやファクスのロール紙の芯に使われていた紙管です。安価でサイズも自由に変えられてリサイクルできる。思いのほか強度もありました。バブル絶頂期で周囲は全く興味を示しませんでしたが、紙管に建築材としての可能性を感じて防水、不燃化などの構造開発を続けました」
この紙管をアルミの代わりに使えば森林破壊の歯止めになると、坂さんは行動を起こした。坂さんはジュネーブ到着後、UNHCR在籍の日本人とコンタクトが取れ、本部にいたルワンダ難民のシェルター担当のドイツ人建築家を紹介される。「偶然の連鎖」と笑うが、坂さんが提案した紙管を使ったシェルターは高く評価され、これを機にUNHCRとコンサルタント契約を結び、紙管のシェルターが実用化される流れができた。
阪神淡路大震災でもいち早く坂さんは動いた。注目したのは支援が届かず、公園でテント生活を余儀なくされていたベトナム難民だ。
「公園の近隣住民はスラム化を危惧して難民に立ち退きを迫る状況でした。そこで、難民の方たちと信頼関係を築くべく、新幹線の始発に乗って毎週現地に通い、自費で紙管の仮設住宅を1棟建てたらベトナム人が通う"たかとり教会"の神父さんから評価してもらえて。それから教会内で部品を準備し、半日6棟ペースで建てて、最終的には50棟の紙のログハウスを学生と一緒につくりました。そして、紙の教会を建てました。もちろん行政の許可なしです。でも、結局おとがめなしでした」と笑う。紙の教会はその後10年も愛用され、台湾の被災地に移築され、恒久的な教会兼コミュニティセンターとして今も使われている。
医者が患者を救うように建築家の使命を全うする
坂さんはその後もトルコやインド、イタリアの被災地などに飛び、国内では2004年の新潟県中越地震や11年の東日本大震災など各地の災害支援に奔走した。紙管は国内外問わず安価で調達しやすく、軽量で施工しやすい。紙のログハウスの基礎はビールケースに砂袋を詰めてつくった。
特に東日本大震災では、学校の体育館に避難した人のプライバシーが確保されていない状況を目にし、誰でも組み立てられる紙管を支柱に布で仕切る「避難所用間仕切りシステム」を開発する。だが、これもすぐには採用されない。
「どの国の行政も前例のないことには後ろ向きです。反対されることにも慣れましたし、いちいち感情的になっても始まりません。東北の被災地でも間仕切りに対して最初の30施設は『必要ない』『管理がしにくくなる』と断られました。が、学校の先生が取り仕切る施設で採用されて、被災者に好評な『前例』ができると3カ月で約2000ユニットを設置できました」
"壁"を崩す秘策はなく、「人との縁が突破口になることはありますが、まずは自ら動くことが大切」と語る坂さん。日本の建築家とは組まず、1995年に立ち上げた災害支援活動団体ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)のスタッフや教える大学の学生や現地の建築家・学生と動く。
「ほかの建築家と組むと、話し合う時間が増えるばかりです。被災時はスピード勝負になるので、平時より行政と防災協定を結んだ体制づくりを進めています。現状国内の県や市町村を合わせて58カ所。少しずつ増やしています」
2022年、ロシアのウクライナ侵攻でも侵攻の翌月3月には難民支援として、ウクライナ、ポーランド、スロバキアやフランスで間仕切りシステムを設営。23年5月、石川県能登地方の震度6強の地震では、数日後には紙の仮設住宅を建てるなど対応が迅速だ。
「普通の仕事と災害支援は両立というより、もはや区別がありません。かける時間、達成感も一緒で、今もウクライナで2万5000㎡規模の木造の病院建築を進めています。医者が当たり前に患者を診るように、住空間で困っている状況の改善は建築家としての使命。特別なことではありません」
"仮設"であっても最善を尽くす坂さん。「喜んでくれる人がいるから」と前例なき道に"終(つい)"ではなく心休まる"今の住処(すみか)"をつくり続ける。
坂 茂(ばん・しげる)
建築家
1957年東京生まれ。高校卒業後に渡米。クーパー・ユニオン建築学部在籍中の82年より約1年間磯崎新アトリエに在籍し、84年に大学卒業。85年に坂茂建築設計を設立。95年国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)コンサルタントを務め、同年、災害支援活動団体ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク「VAN」を設立(2013年NPO法人化)。邸宅や世界的な大規模建築を手掛ける一方、「紙のログハウス」「間仕切りシステム」などで被災地支援を展開。14年にプリツカー建築賞受賞。17年に紫綬褒章受章など国内外受賞多数
写真・後藤さくら
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