狂言を観たことはなくても、狂言師・和泉元彌さんの名を知る人は多い。狂言の枠を超え、映画や舞台、バラエティー番組など活躍の場は縦横無尽だ。時にワイドショーをにぎわしたこともあれば、お笑いタレントにモノマネされ評判を取ったこともある。だが、1歳半から稽古を始め、50歳になった狂言師としての軸足は、決してブレることがない。全国各地を飛び回り、伝統芸能で笑顔を広げる。
物心つくずっと前から狂言師として生きる
住む場所も職業も、昔に比べて自由な時代だ。代々続く家業でさえ継承を強いるケースは少なくなってきた。だが、伝統芸能の世界ではそうはいかない。狂言師・和泉元彌さんが稽古を始めたのはわずか1歳半。初舞台は4歳である。 「狂言のある生活が自分にとっては当たり前で、ほかの家もそうだと思っていたくらいです。物心つく前から修業が始まり、稽古をしたくないという発想がそもそもありませんでした」
辞めたいと思ったことは一度もない。それだけ狂言は和泉さんの日常に溶け込み、心身の中心にある。
そもそも狂言は今から約650年前、室町時代に生まれた芸能だ。奈良時代に中国大陸から「散楽(さんがく)」という芸能が伝わり、「猿楽(さるがく)」として派生して、さらに歌と舞を軸に悲哀を表現する「能」と、セリフ中心の喜劇の「狂言」に分かれた。そして狂言は大きく三つの流儀が確立した。大蔵流、鷺流(一部地域に、郷土芸能として伝承)、そして和泉流だ。 「和泉流586年の歴史は、宗家々を中心に脈々と口伝で伝えられてきました。ですから父は、師匠でもあるのです。和泉流全254曲を全て完演した史上初の人物であり、伝統を未来に伝えるためにも大きな功績を残した、今も尊敬する存在です」
9歳の頃には狂言は単に自分のものにすべく習うものから、次代に渡していくべきものという意識があったという。その思いは変わることなく、一層強くなったのは21歳、師匠である父が他界した時だ。 「狂言の稽古は礼に始まり、礼に終わる。弟子は師匠を尊敬し、師匠に信頼される存在でありたい│と変わらぬものを受け継ぐために、父の修業に食らいついていきました。父の存在は師匠としても見本でありました。しかし、私も父と同じように稽古をつければ良いというわけではありません。変えてはいけないのは、伝えた先。型やそこに流れる心をしっかり伝えるため、『芸は盗むもの』だけではなく、言葉を尽くすこともあります」 現在は姉である史上初の女性狂言師として活躍する和泉淳子さんと十世三宅藤九郎さん、娘と息子、おいとめいを含めて和泉流宗家一門に稽古をつけ、自身も心技を磨く。
狂言の枠を超えた活動で狂言の真髄を痛感
だが、周知の通り和泉さんの活動は狂言にとどまらない。1989年にテレビのバラエティー番組に出演したのを皮切りに、92年には18歳で藤子・F・不二雄さんの漫画を映画化した『未来の想い出 Last Christmas』で映画デビューを果たす。 「家族会議をして、異分野から狂言師として育った私の可能性を見いだし、求めていただけるならと、父にも背中を押され外部出演するようになりました」 テレビや映画、舞台での活躍で、知名度は一気に上がった。2000年にはNHK紅白歌合戦の白組司会を務め、翌年にはN H Kの大河ドラマ『北条時宗』の主演に大抜擢(ばってき)された。 「型は感情で変えることは許されません。型には心が込められているからです。不思議なことですが、型を守って演じていると、そのセリフや所作からしっかりと喜怒哀楽の感情が自分の心に芽生えるものなのです。型が先か、心が先かと考えた時、例えば、手と手を合わせる合掌がそうです。多くの方が子どもの頃に大人の見よう見まねで始めたと思うのですが、気づくと合掌することで対象への畏敬の念が生まれますよね。それと同じように型は心を伝える手段なのです。それを再認識する経験にもなりました」
さまざまな活動に挑戦しても立ち返るのは狂言であり、「狂言は自分にとっての背骨」と言い切る和泉さん。狂言の普遍性を痛感したからこそ、コロナ禍でも伝統芸能、日本文化の歩みを止めてはいけないという思いは強かった。20年7月には、江戸総鎮守神田明神の協力の下、境内にある文化交流館で「和泉流宗家EDOCCO狂言会」を発足。ほぼ月1回ペースで開催し、今年5月で51回を数える。 「もともと狂言は神事。そして日本の伝統芸能唯一の喜劇です。世の中が暗い時こそ笑いを届けることで元気になってもらいたい。その一心で活動を続けています」
580余年の伝統を後世に伝えるべく活動
また、伝統を守るべく先代の「伝統と革新」の意志を継ぎ、異業種コラボや新作狂言の創作にも熱心だ。狂言における地方創生にも尽力し、11年、東日本大震災や新潟・福島豪雨の影響で運休し、存続が危ぶまれた全国屈指の秘境ローカル線JR只見線の再開通の応援活動にも和泉宗家一門で取り組んだ。23年には会津若松商工会議所主催の和文化体験ツアーに全面協力。同ツアーは観光庁の「インバウンドの地方誘客や消費拡大に向けた観光コンテンツ造成支援事業」に採択されて実現したプログラムで、地元の会津東山芸妓とのコラボレーションによる狂言が話題となった。新作小舞の制作と新作狂言「會津巡り」の監修を和泉さん、狂言の脚本・演出は淳子さんで、会津の歴史や自然、地元の民謡や方言をふんだんに盛り込んだ。 「会津の自然の豊かさ、人々の温かさの中にも郷土愛に通じる芯の強さを感じ、それを表現することに努めました」
台湾から10人がツアーに参加したほか、県内外から約350人が集い、会場は沸いた。 「先代から海外公演を始めて、これまでに14カ国30都市を巡っています。字幕表示をすることもありますが、字幕がなくても、日本語や日本の文化が分からなくても、日本と同じシーンで笑いが起きる。狂言は、世界に通用する喜劇であると実感しています」
和泉流宗家の自主公演に、神社仏閣での奉納、自治体主催の公演や海外公演と狂言の認知拡大に全力を尽くす。今年1月に起きた能登半島地震のチャリティー狂言会も藤九郎さんを中心にいち早く開催し、その間も次代の狂言師である娘と息子、そしておい、めいらの育成に余念がない。今年7月には和泉流の大秘曲「釣狐(つりぎつね)」を息子の元聖(もときよ)さんが披(ひら)く。「猿に始まり、狐に終わる」といわれる一人前の狂言師として認められる大舞台であり、元彌さんも16歳の若さで披いた重要な作品だ。未来に狂言をつなぐためにも、いかに多くの人に狂言の魅力を知ってもらうかが命題であり、だからこそジャンルも世代も国境も軽々と飛び越えて狂言の可能性を広げる。令和に生きる生身の狂言師の、約半世紀も磨き続けた伝統芸と情熱は伊達(だて)ではない。
和泉 元彌(いずみ・もとや)
狂言師
1974年東京生まれ。父、和泉流十九世宗家の和泉元秀氏のもと、1歳半より狂言を学び、4歳で初舞台を踏む。89年には秘曲『釣狐』を史上最年少の16歳で披く。狂言以外にも活動の幅を広げ、1992年『未来の想い出Last Christmas』で映画デビュー。2001年にはNHKの大河ドラマ『北条時宗』の主演を務め、俳優、タレントとして各メディアに出演。山陽学園大学、金城学院大学の元客員教授。20年より神田神社(神田明神)で「江戸総鎮守神田明神 和泉流宗家EDOCCO狂言会」を開催中
写真・後藤さくら
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