植木屋から造園業へ
山口県の中南部、瀬戸内海に面した防府市で、羽嶋松翠園は造園工事業を営んでいる。創業は大正7(1918)年で、初代の羽嶋水亥(はじまみずい)さんが植木屋を始めた。 「祖父の水亥は当時、依頼された家の庭に植栽をしたり、庭の木を剪定(せんてい)したりしていました。そのほかに茶道と華道の師範もしていて、地主などの家に行って、奥さまやお嬢さまにお茶とお花を教えていました。昭和初期には、学校の卒業式や入学式に花を生けに行っていたようで、近所のお年寄りから、『あんた方のじいちゃんが花を生けに学校に来よった』などという話も聞いたりしました」と、三代目で同社の会長を務める羽嶋秀一さんは言う。
昭和45年には、初代の息子の春男さんが事業を承継し、社名を「羽嶋松翠園」とした。これは、初代が平家古流茶花礼道の師範として「羽嶋松翠斎」を名乗っていたことから、その名を取ったものだった。 「祖父の代までは個人営業で、職人を集めて仕事をしていましたが、父の代になってから会社組織にしました。父は以前、大工仕事のようなことをしていたのですが、当時は全国で造園ブームが興っていて、庭づくりが盛んに行われるようになっていたことから、家業を手伝う形で始めて、それから後を継いだそうです。庭の仕事は大工のような木を使う仕事も多く、父がつくった竹垣や庭門などは、細かい細工もきれいで、見事なつくりでした。私も長年この仕事をしてきて、なかなか親父を超えられないなと感じていました」
二人の名人の下で見て学ぶ
「私は、小さい頃から家の仕事を見てきて、中学生のときにはすでに将来植木屋になると決めていました。親もそのつもりでいて、大学1年生の夏休みに実家に帰ったら、新しい地下足袋が置いてあるのです。翌日から夏休みが終わるまで2カ月間ずっと仕事をさせられました。冬休みも春休みも。それでもらえるのはお小遣い程度。そのうち、休みに家に帰らなくなりました」と笑う。
秀一さんは宮崎県の大学で造園を学んだ後、昭和58年に羽嶋松翠園に入社。しばらくは祖父、父とともに三代そろって造園と樹木管理の仕事をして、さまざまなことを学んでいった。 「卒業してすぐに家に帰って来たのは良かったと思っています。祖父も父も名人と呼ばれるほどの腕があったので、よそで修業をするより学ぶことは多かった。職人の世界ですから、教えられたという感覚はないですね。二人の仕事を見てきたことで、剪定にしても石組みにしても、何が良くて何がおかしいのか、見ただけで分かるようになりましたから」
秀一さんが入社すると、それまでやっていなかった公園の木や街路樹の植え付け、剪定といった公共工事を請け負うようになり、こちらは秀一さんが祖父や父に頼らずに行っていった。 「早く親父と仕事で対等になるようにと、それまではしたことがなかった営業にも出掛けて、仕事を取ってきました。それで公共工事を請け負うようになってからは、仕事が大きいので、売り上げの数字を出すことができました」
日本庭園で海外進出も狙う
平成5年に父の春男さんが急逝し、32歳で会社を継いだ秀一さんは、門扉や塀、垣根、駐車場、テラスの施工など、エクステリアの仕事も始めた。造園の技術を生かし、樹木や花とマッチさせ、四季の変化や時間の経過とともに深まり、味わいが出る施工を行っている。それ以外にも、国指定名勝に指定されている毛利氏庭園(防府市内にある旧長州藩主・毛利家の庭園)の管理を請け負い、樹木医の資格を取って樹木診断も行うようになった。
「代々続くお客さまもいますし、新しいお客さまも増えています。庭をつくることで私たちも育てていただいていますし、工事車両が道を通ることを地域の人たちにご理解いただいている。本当にありがたいことです。その恩返しとして、地域のまつりなどでボランティアとしてお手伝いをしていて、社員たちが頑張ってやってくれています。将来についても、私には息子が3人いるのですが、後を継ぐつもりのなかった上の2人を会社に入れたら、今は真面目にやっています。三男も東京の大学を出て造園会社に就職した後、2年前にうちの東京本社を設立して、向こうで頑張っています。その東京本社を自立させるようにしていき、造園の技術を若い人に伝えていきたい。それが落ち着いたら、日本庭園の造園で海外進出を狙ってみたいと思っています」
羽嶋松翠園は、造園技術の伝承とともに、その技術を手に大きく羽ばたいていこうとしている。
プロフィール
社名 : 株式会社羽嶋松翠園(はじましょうすいえん)
所在地 : 山口県防府市大字下右田647
電話 : 0835-23-3615
代表者 : 羽嶋天平 代表取締役
創業 : 大正7(1918)年
従業員 : 33人
【防府商工会議所】
※月刊石垣2024年7月号に掲載された記事です。
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