新事業は緻密かつ大胆に行う
駿河湾に面した静岡県焼津市は、カツオ漁などの水産業で知られているが、食料品や生産用機械器具、金属・プラスチック製品など、幅広く製造業も盛んである。工作機械や産業機器の販売をメインとする総合商社のコハラは、この地で大正11(1922)年に創業した。 「創業者の小原作次郎は茨城県久慈浜漁村の網元の次男で、船の機関士でした。ディーゼルエンジンの研修で焼津に滞在した際、大きなパーティーに参加するため着物の反物を購入しました。その着物をつくってくれた女性、小原とくと恋が芽生え、縁があって小原家に婿入りしました。それが私の祖父母です。作次郎は小原家の家業は継がず、地域産業に貢献したいという思いから、地場の機械装置メーカーに機械要素部品を供給するコハラ商会を設立したのです」と、コハラの四代目で社長を務める小原照光さんは語る。
初代は実弟とともに商売に励み、営業を担当。ディーゼルエンジンの修理から、炭鉱で使うベルト、モーター、プーリー(滑車装置)の販売と、商品の幅を広げていった。初代は移動に夜行列車を利用して宿泊費を節約し、もうけたお金は土地や株式に投資した。どれも失敗することはなく、安く購入した焼津港周辺の膨大な土地を港拡張の際に全部寄付するなど、地域への貢献も忘れなかった。 「当社には初代直筆の社是『細心大胆』が飾られています。これは、新しい事業を起こすときは緻密な計画の下に大胆に素早く実行するという意味です。今もこれを実践しようと努力しています」
新拠点で新規顧客を開拓
戦時中は2年間の休業を余儀なくされたが、戦後、初代の長男と次男が戦地から復員すると、物資のない動乱期に二人は手分けして全国各地に出掛け、そこで仕入れた商品は飛ぶように売れた。昭和38年には空圧・油圧機器、自動省力機器を商品に加え、コハラ商会が総合機械・工具商へと進展すると、40年には長男の曻(のぼる)さんが二代目社長として会社を継いだ。
一方の次男は、それより前の21年に独立して東京で南部商店を設立。持ち前の商才を発揮して、商社と不動産の二つの部門で会社を発展させていった。 「南部はその後、商社部門が厳しい状況になりました。とはいえ関東一円に優良顧客を多く持っていたので、弊社にとって関東進出の大きなチャンスになると、令和3年に商社部門を買い取り、子会社にしました」と照光さんは説明する。
照光さんは大学を卒業後、工作機械などを取り扱う商社で営業として7年間働いた後にコハラに入社した。当時は二代目の末の弟である榮哲さんが三代目社長を務めていた。二代目が照光さんの父親で、三代目は叔父にあたる。 「私の入社当時、営業所が焼津市と隣の静岡市にしかありませんでした。この地域の地場産業である木工や製材、製紙、製茶などは斜陽化していて、このままではうちの会社もなくなってしまうと感じました。そこで二輪・四輪の工場が多い浜松市で新規顧客を開拓するため、近隣の掛川市に営業所をつくりました」
製造業の人手不足の解消へ
その後、照光さんは将来の社長就任を見据えて、本社に呼び戻され経理と総務を担当した。情報収集のために取引銀行をそれまでの1行から新たに5行増やし、優秀な人材を確保するために大卒の新卒を採用していった。そして平成9年に社名をコハラに改称すると、11年に社長に就任した。 「商社の機能だけでは顧客に提供できるサービスが限られるので、板金・溶接・製缶を中心とした装置の設計・製作を行う工場を19年に買収し、ナカジマテックとして新工場に移転しました。そして、ナカジマテックにロボットシステムを検証するNK‒LABを常設し、今は産業用ロボットのシステムインテグレーターに注力しています。これはロボットを使うためのシステムを提案、設計、提供する事業で、ナカジマテックがその設計・製作を行っています」
これにより、製造業の人手不足を解消し、生産性の効率化を図る産業用ロボット導入のお手伝いをしていくと照光さんは話す。さらに、これからは介護をはじめ、あらゆる領域への進出を考えている。 「人口減少、少子高齢化、人手不足などの課題があるこの時代に生き残っていく企業は、世の中のために役に立つ会社です。コハラグループはビジネスを通してこれらの社会問題を解決していきます。創業者の理念を受け継ぎグループ力を高めて、地域産業と日本の未来に貢献していきます」
産業に貢献し、地域を活気付けたいという創業者の思いは、しっかりと受け継がれていく。
プロフィール
社名 : 株式会社コハラ
所在地 : 静岡県焼津市焼津6-12-22
電話 : 054-629-6226
代表者 : 小原照光 代表取締役社長
創業 : 大正11(1922)年
従業員 : 約100人(グループ全体)
【焼津商工会議所】
※月刊石垣2024年10月号に掲載された記事です。