葬具製造から葬儀の請負へ
岡山県南部、瀬戸内海に面する倉敷市は、古くは年貢米の集積地として街並みを形成。大原美術館を擁する中心市街地は、多くの観光客を集める。他にも、古くからの繊維産業、水島地区のコンビナートなど、いくつもの顔を持つ。この街で、100年以上にわたり地域の葬祭を担ってきたのが株式会社いのうえ。創業は大正2(1913)年、初代の井上英二氏が葬具店を開業したのが始まりである。 「初代は指物大工でした。葬儀の祭壇や備品を創る職人として腕を磨き、20歳で独立。井上葬具店を開業したのです」と、三代目で社長の井上峰一さんは語る。
当時の葬儀は、自宅か寺院で行うのが一般的。葬具店は依頼を受けると棺(ひつぎ)や祭壇、花などの葬具を用意していた。 「その後、地域の方々からの依頼を受け、葬儀そのものも手掛けるようになったようです。しかし、戦後になると葬儀の公営化が進み、市役所が商売の競争相手になりました。そこで、後を継いだ二代目の哲二は、市役所の職員では対応できないような、遺族に寄り添う葬儀を提供しようと努力したのです。葬儀は単なる儀式ではなく、精神性の要素が強いもの。効率化重視の公営サービスとは一線を画した葬儀へのスタンスが、地域の方々から支持されるようになりました」
さらに、葬祭業は基本的に受注産業。日頃からの地域社会での関係づくりが重要になる。職人気質だった初代に似て、二代目も人付き合いが不得手だったが、消防団に入るなど、地域の人々との交流を深めていった。
後を継ぐ前に禅寺で修行
昭和40年には、有限会社井上葬儀に改組。ただ、家族経営であることは変わりなく、数人の従業員に加え、家族総出で事業を切り盛りしていった。井上さんも子どもの頃から家業を手伝い、いつかは後を継ぐだろうと感じていたと言う。 「父は、その丁寧な仕事ぶりで、地域からは評価されていました。しかし、市営に加えて民間の葬儀社も増えてきて、経営は苦しかったようです。私が高校生の頃、父からは『葬儀屋はわしの代まででいい。好きな道を行け』と言われました」と、当時を振り返る。
一方、高校時代はけんかに明け暮れ、停学や謹慎を繰り返していた井上さん。それでも恩師の計らいで禅の研究に力を入れている仏教系大学に進学した。入学後は、生来の行動力を発揮、応援団を立ち上げ、自ら団長としてその活動に没頭していた。「大学卒業後は海外で活動したいと考え、両親に葬儀屋を継がないことを伝えました。父はあっさりと認めてくれたものの、母は隣で黙って俯(うつむ)いていました。その姿を見て、『なんてことを言ってしまったんだ、これはなんとしても自分が後を継がなければならない』と思うようになったのです」。
そこで、当時の学長、故 山田無文老大師と、その直弟子、後の全日本仏教会会長 河野太通氏に相談。後に生涯の師と仰ぐことになるお二人から「君なりのやり方で新しい葬儀屋を目指したらいい」という諭しを受け、人生にけじめをつけるべく京都市の妙心寺で1年半、禅の修行を積んだ。
本質を守りつつ革新を断行
昭和46年、大学卒業と同時に井上葬儀に入社した井上さんは、昼夜を問わず働いた。 「このままでは会社の成長はない。新卒の大学生を定期採用できるような会社になるにはどうすべきかを考え続けました」
そこで、不透明だった料金設定の明確化など業界の旧弊を打破。加えて、新しい時代に即した葬儀の在り方、葬儀会社の立ち位置を模索しつつCI(コーポレートアイデンティティー)を導入した。これも、業界では先陣を切るものであった。
52年に会社を株式会社いのうえに改組。60年には36歳で社長に就任した井上さん。事業は順調に拡大し、平成2年には中国・四国地方初の本格的な葬祭専用ホール「エヴァホール倉敷」をオープンした。 「すぐに成果が出たわけではありませんが、評判が口コミで広がり、次第に利用者が増えていきました。今では岡山県南に19の葬祭ホールを展開しています」 さらに、大卒新入社員を受け入れるため、教育カリキュラムの作成も進めた。そして同4年に大卒の新入社員第1期生が入社。以降、毎年大卒者を採用し、研修では業務だけでなく、当代一流の宗教者に講師を依頼するなど、人格形成にも力を入れている。
同社は、「葬儀葬祭は、人間の尊厳に最も近い仕事」との誇りと責任をかみ締めつつ、すべての文化の根源である儀礼文化の一翼を担う。そして「変えてはならないもの」をかたくなに守り、「時代とともに変えるべきもの」には果敢に挑んでいくという姿勢を貫いていく。
プロフィール
社名 : 株式会社いのうえ
所在地 : 岡山県倉敷市二日市511-1
電話 : 086-429-1000
HP : https://www.everhall.co.jp
代表者 : 井上峰一 代表取締役社長
創業 : 大正2(1913)年
従業員 : 約260人(グループ全体)
【倉敷商工会議所】
※月刊石垣2025年5月号に掲載された記事です。