〝キリン博士〟の異名をとる郡司芽久さんは、「キリンが好き」という幼少期の思いに端を発して、キリン研究者となった。研究対象は、主に国内の動物園から献体されたキリンで、その数は今や53体にもなる。キリンの首の骨は7個という定説を覆し、8個であることを証明。研究の日々をつづった著書が話題になるなど、キリンとは切り離せない人生を邁(まい)進中だ。
幼少期から変わらない 「好き」が全ての出発点
アフリカに生息するキリンは、遠く離れた日本で、特に子どもたちからの人気が高い。動物園でしか目にすることはできないが、パンダ、ゾウ、ライオンに並ぶ、動物キャラクターの定番だ。 「キリンが好き」 物心つく前の子どもがそう口にしても、別段不思議ではない。郡司芽久さんも、そうした子どもの一人だった。 「生き物全般、特に大きな動物が好きでした。その中でもキリンは、デフォルメしてもキリンと分かるほど姿形がユニーク。穏やかなたたずまいも好きで、動物園で何時間でも見ていられるほどでした」
高校生のときには、人気漫画の影響で獣医になることを夢見た。そこで獣医学部を受験しようとしたが、成績が上がったため東京大学を受験し、進学することに。東大は、入学時に学部を決めない進学選択制度を採用しているため、「焦らず1〜2年はいろいろ学んでから、学部や将来のことを考えよう」と思っていた。
だが、4月の半ば、友人と一緒に聴講した大学主催の「生命科学シンポジウム」で、郡司さんの意識は変わった、いや、変えられた。 「友人は、将来研究者になるという明確な夢に向かってすでに動き出していて、シンポジウムに登壇した先生たちも、自身の研究を楽しそうに発表されていました。一生楽しめる仕事について、真剣に考えさせられました」
好きなものは生き物。犬や昆虫、鳥などを飼ったこともあるが、一番はずっとキリンだった。
「キリンの研究がしたい」
郡司さんは、校内で開催される生理学、行動学、発生学、生態学、古生物学など、さまざまな専門家のセミナーやシンポジウムに足を運んだ。キリンの研究者になるためにどうすればよいか、相談した先生も60人を数えたという。
キリンの死と向き合い キリンと生きる
入学して半年、ついに恩師と出会う。獣医学者兼比較解剖学者である遠藤秀紀さんだ。「キリンの研究は難しい」「無理」と言われ続けてきた郡司さんに、ただ一人「できる」と言ってくれた先生である。
「後になって、できると言った記憶はないんだけどなと笑っていましたけどね」
狭き門の遠藤ゼミ生に選ばれ、出会いからわずか2カ月後の2008年12月、郡司さんは初めてキリンを〝解体〟した。恐怖心よりも知的好奇心が勝った。
「『解体』と『解剖』はどちらも骨格標本をつくるために皮膚や筋肉を剝ぎ取る作業です。解体は専門知識を必要としませんが、解剖は筋肉の様子や動きを学術的知見から詳しく観察する必要があり、撮影やスケッチをしながら進めていきます。生物学の研究では、人間が動物に触ることは基本的には厳禁ですが、解剖学は別。野生動物、それも大型であるキリンに直接触れられるのが最大の魅力です。解体はできても、初めての解剖は図解で見るのと大違い。無力感や罪悪感に苛(さいな)まれましたが、だからこそ、その死を無駄にしたくない。キリンの知識を深めて、キリンがより健やかに生きていける一助になれたらと考えました」
郡司さんは、遠藤研究室を通じて大型動物の解体や骨格標本作成に携わり、解剖学や形態学の基礎を学んでいった。大学院を経て、27歳でキリン研究者になるが、一大決心したわけではなく「就職活動が苦手だったから」と苦笑する。
研究の延長線上にあった 思いがけない反響
大型動物の研究者は、世界的に男性よりも女性が多く、大型ゆえに運搬には主にクレーンなどの重機を用いる。男女の筋力差を気にする次元を超えた重さのため、性別を問わず研究できる領域だ。
だが、研究は簡単ではない。動物園から届くキリンの〝訃報〟はいつも突然だ。特に訃報は寒い季節に多く、年末年始の予定は立たない。キリンの遺体の状態優先のため、真冬でも暖房を控えての解剖となる。獣医の病理解剖後に献体に出すのは、動物園サイドの厚意でしかなく、動物園、博物館、運搬業者の連携あっての研究だ。
郡司さんが着目したのはキリンの首だった。キリンの頸椎(けいつい)は人間と同じ7個で、8個あるという仮説は長年否定的に捉えられてきた。だが郡司さんは、2013年ごろからその仮説を研究テーマに掲げ、数年かけて第一胸椎(きょうつい)があたかも8個目の「首の骨」として機能していることを突き止め、16年には論文を発表。さらに3年後の19年に出版した『キリン解剖記』(ナツメ社)が注目を集め、論文が広く知れ渡るきっかけとなった。 「ポストドクター(博士学位取得後の任期付きの研究職)として働いていた頃で、取材で出会った出版関係の方と親しくしているうちに、『いつも研究の話が面白いので』とオファーをいただいたのが始まりです。出版後、書評サイト『HONZ』(24年に更新終了)で、生命科学者の仲野徹さんが紹介してくださったことで、出版社も驚く話題作になりました」
〝キリン博士〟として脚光を浴びる郡司さんのキリンの解剖数は世界トップクラス。実績を生かしてソフトロボット学など、ほかの研究にも貢献している。 「ソフトロボット学は日本がリードしている学術領域で、数年前から関わっています。生き物の〝やわらかさ〟を数値化するなど、人間とロボットの共生を目標に共同研究を進めています」
21年からは、東洋大学の助教として教壇にも立っている。 「学生たちには、失敗を恐れずにチャレンジしてほしいと思っているので、よく『失敗してもいいじゃん』と声がけをしています。やりたいこと、好きなことが分からない子も多く、まずは好きな食べ物や色、今日一番面白かったことは何かを自分に問う。日々、自分の〝好きセンサー〟を鍛えるようにアドバイスしています」
そして、「博物館の理念」と言われる無目的、無制限、無計画の「三つの無」と絡めて、こう続けた。 「博物館は、残せるものは残すという立場。今の社会的ニーズや損得などで、コレクションを選別することはありません。私の研究も社会的ニーズを満たすものではないと思われがちですが、キリン研究以外のつながりが広がっており、そこに意義があると感じます。合理性や生産性にとらわれすぎない、人と人との有機的なつながりが、社会や人の心を豊かにするのだと思います」
郡司さんは、人より世代交代のサイクルが早いキリンと向き合うことで、三つの無への理解度が深まったと語っていた。
郡司 芽久(ぐんじ・めぐ)
キリン研究者・農学博士
1989年東京都生まれ。2017年東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程を修了。農学博士を取得。同年に第7回日本学術振興会育志賞受賞。国立科学博物館特別研究員PD、筑波大学システム情報系研究員を経て、21年4月東洋大学生命科学部生命科学科助教に着任。キリンをはじめ、哺乳類や鳥類の体の構造や機能の進化を研究。専門は比較解剖学、比較形態学。著書に『キリン解剖記』(ナツメ社)、『キリンのひづめ、ヒトの指』(NHK出版)がある
写真・後藤さくら