〝世界のミクニ〟と称される日本のフランス料理界の巨匠、三國清三さん。全国でレストランやカフェを展開し、食育などの社会活動も多岐にわたる。2022年末に37年の歴史を刻む東京・四ツ谷の名店「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉じ、25年9月1日「三國」として再オープンさせた。約80席の店舗からカウンター8席のみの店舗に刷新し、70代の新たな挑戦の火ぶたが今、切って落とされた。
70代で新たな挑戦を決意 8席のみの「三國」の開店
国内外にその名をとどろかせた名店「オテル・ドゥ・ミクニ」。オーナーシェフである三國清三さんは、言わずと知れた日本のフランス料理界のレジェンドだ。店は、直営店やプロデュース店を含めて全国に十数店舗を展開し、従業員も165人を超える。コロナ禍で店の経営が大打撃を受けると、20年にYouTubeチャンネル「オテル・ドゥ・ミクニ」を開設。3年間、毎日投稿し、動画の収益で挽回した。
三國さんといえば、厨房でげきを飛ばす声が客席にまで響くことで知られているが、動画では一変。人懐っこい笑顔を浮かべ、スーパーで買える身近な食材を使った簡単レシピで楽しそうに調理する。つくった料理をワインと共に食べる姿や、「グーです」と両手でOKサインをつくるポーズに「癒やされる」のコメントがあふれるほどだ。今やチャンネル登録者数は53万人を超え、インスタグラムのフォロワー数は、17万8000人を数える。20代、30代の来店増加で、ピンチをチャンスに変えた。
37年の歴史を刻む店を閉じた。カウンター8席の「三國」を新たにオープンし、その日仕入れた食材で、三國さんが一から全て手掛ける。メニューなしのスポンタネ(即興料理)で、一品料理を来店客と相談しながら決める。 「先輩シェフの多くは70歳になると現場から退きます。でも、70歳から新しいことに挑戦した実績をつくれば、後輩たちの中からも続く者が現れます。今まで店もスタッフも増えたことはありがたいですし、幸運ですが、これまでできなかった、一料理人として一人で無心になって料理に打ち込む。それをやってみたいのです」
三國さんの情熱は尽きない。
鍋を磨き続けて 不可能を可能にする
「事実は小説より奇なり」というが、まさに三國さんの人生がそうだ。1954年、北海道北西部の漁師町、増毛町(ましけちょう)に、7人兄弟の三男として生まれた。半農半漁の貧しい暮らしで、学校よりも家業の手伝いが優先。中学卒業後は札幌の米店に住み込みで働き、夜間は調理師学校に通った。その米店で口にした人生初のハンバーグに衝撃を受けた。 「『札幌グランドホテル』のハンバーグはもっとおいしいというので、それならそのホテルの料理人になろうと決めました。単純です」と笑う。“北の迎賓館”と称されたホテルの採用条件は高卒以上。それでも三國さんは直談判し、鍋磨きの雑用から始めて札幌グランドホテル、その後は帝国ホテルで働くチャンスをつかみ取る。帝国ホテル内の18店舗の鍋磨きをかって出るほどの行動力が評価され、突如総料理長の村上信夫さんから、スイス・ジュネーブの日本大使館料理長に推薦されると、20歳でスイスに飛んだ。大使館料理人として腕を振るう一方、休日になると始発の電車に飛び乗って、〝料理界のモーツァルト〟と呼ばれる天才シェフ、フレディ・ジラルデの下でも働いた。ここでも直談判で、開かない扉をこじ開ける。鍋洗いから始めて5年後にはシェフの推薦状をもらえるほどの実力をつけ、スイスやフランスの三ツ星レストランで修業を重ねた。
82年に帰国し、「ビストロ・サカナザ」のシェフを経て、85年に30歳でオーナーシェフとして開店したのが「オテル・ドゥ・ミクニ」だ。ある日、突如来店したニューヨークの四ツ星レストラン「ザ・キルテッド・ジラフ」のオーナーに絶賛され、再び世界の扉が開いた。 「『すぐニューヨークに来て、イベントを開催してほしい』と熱心に誘ってくれて、渡りに船だ!と即決しました」
その大舞台で、三國さんは米国のセレブをうならせた。評判は瞬く間に世界中に広がり、フランスや英国、タイや香港の一流ホテルで次々と「ミクニ・フェスティバル」が企画され、名が世界に知れ渡る。 「一番印象に残っているのは、タイの名門ホテルであるザ・オリエンタル・バンコク(現・マンダリン・オリエンタル・バンコク)。ミシュランの三ツ星シェフでも3年連続開催が一般的なところ、5年連続で開催できたことは非常に名誉です」