農具製造から金物屋へ
福井県のほぼ中央にある越前市(旧・武生市および今立町)は、奈良時代に越前国の国府が置かれ、平安時代には紫式部が『源氏物語』を書く前の一時期を過ごした場所として知られる。この地で鋼材や建設資材の販売を行うカラヤは、1866(慶応2)年に創業した。二十代目当主の山本仁左衛門が開業した、鍋や釜を売る金物屋「カラヤ仁左衛門」が始まりである。 「創業は江戸時代末期ですが、山本家の起源は正応永仁(13世紀末)の頃で、京都にあったことが寺の過去帳から分かっています。その後、1500年代に越前に来たようです。こちらに来てからは、唐物と呼ばれる輸入品を売ったり、呉服商をやったり、紙を販売したりして、金物商となりました。カラヤという屋号は、かつて唐物を扱っていたからとか、くわの柄から柄屋と呼ぶようになったとか、いろいろな説があります」と、同社の会長を務める二十五代目・山本仁左衛門さんは言う。カラヤでは代々、当主が仁左衛門の名を戸籍上も含め襲名している。
創業者である二十代目は、14歳で山本家に養子に入り、農具製造の家業を継いだ後、金物屋を始めた。商売だけでなく社会奉仕にも努めたが、経済不況などから厳しい晩年を過ごした。後を継いだ二十一代目も養子で、家の復興に専念していった。その長男が二十二代目を継いだものの、事業はうまくいかず、東京に分家。そこで次男が二十三代目を継ぎ、1940年に店を法人化して「合名会社山本仁左衛門商店」を設立した。 「二十三代目が私の祖父で、若いころに大阪に丁稚(でっち)奉公に出て鋼材の商売を学んできた。これが基礎になり、二人の息子と一緒に事業を拡大していきました」
仕事は「感謝報恩」の心で臨む
山本さんの父親である二十四代目は戦後、50年に社名を「カラヤ金物本店」に変え、56年には福井にあった部門を分離独立させる形で「からや鋼機株式会社」を設立。これが現在の「カラヤ株式会社」の前身である。63年に本店を武生市に移転し、社名を「カラヤ金物株式会社」に変更すると、福井と敦賀の営業所を支店に格上げし、県内に営業拠点を拡大していった。 「私は大学卒業後に大阪の鉄鋼商社に4年半勤務し、71年にカラヤ金物株式会社に入社しました。当時は、鉄がどんどん売れる時代でしたが、2年後のオイルショックで鉄の値段が下がり、昭和50年代の10年間が一番苦しい時期でした。私は朝から晩まで懸命に働きましたが、経済が良くならないことには、どうにもなりませんでした」と、山本さんは当時を振り返る。
同社は代々、人材教育に力を入れており、特に個人の道徳性向上を目指すモラロジー(道徳を科学的に研究する学問)精神を社員教育に取り入れている。そのベースには「人なくして企業なし」のポリシーがあり、品格ある「人財」の集合体が企業を支える生命線であると考えている。 「商売は“思いやり”と“三方良し”。顧客に喜ばれ、自社も成長し、競合にも迷惑をかけぬ公正な取引を重んじ、我を出し過ぎず引っ込み過ぎず勝負する。仕事は感謝報恩の心で臨み、自己反省して自らを律する。これを日々続けていくことが大事だと考えています」
10の営業所で地域密着の商売
山本さんは、1992年に社長に就任すると、社名に金物がついたままだと釜や鍋のイメージが抜けないことから、「カラヤ株式会社」に変更した。 「私も先代の父も慎重に商売を進めていくタイプです。というのも、鉄の商売は取引先が倒産すると、数千万円もの損失が出ます。しかも、次々と倒れたりすれば数億円の損失になりかねません。自分たちの力量に見合った規模でやっていくために、県内10カ所に営業所を置いています。効率が悪いともいえますが、各営業所で地域の顧客と直接会話ができるので、当社の基本でもある地域密着の商売ができます」
そう語る山本さんは現在、社長の座を息子の庸一郎さんに譲り、自身は会長として社長をサポートしている。 「家が同じ敷地内にあるということもあり、息子とは毎日のように話しています。相談というよりも、自分がやっていることの確認をしにきている感じです。私も社長になってから、父が生きている間は、よく話をしていました。人材不足の今に対応するため、社員の健康のことも考えて、年数がたった営業所の建て替えを始め、昨今は社内環境の整備に力を入れています」
越前の地で150年を超える歴史を重ねた同社は、人材育成と地域密着を基盤に、感謝と三方良しの精神を持って、堅実な姿勢で未来へと歩み続けている。
プロフィール
社名 : カラヤ株式会社
所在地 : 福井県越前市中央2-6-5
電話 : 0778-22-2109
代表者 : 山本仁左衛門 代表取締役会長
創業 : 1866(慶応2)年
従業員 : 約200人(グループ全体)
【武生商工会議所】
※月刊石垣2025年9月号に掲載された記事です。
