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新年特別鼎談 将来に明るい希望を持つ契機に 斎藤公男・日本大学名誉教授×田口亜希・パラリンピアン×三村明夫会頭

斎藤 公男(さいとう まさお) 日本大学名誉教授 A-Forum代表 1938年群馬県生まれ。63年日本大学理工学研究科大学院修了。91年同大学教授、2008年同大学名誉教授。07年日本建築学会会長。空間構造デザインの第一人者。シェル構造の世界的権威であった坪井善勝研究室で国立屋内総合競技場(代々木競技場)の設計に関わる。

いよいよ東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、「東京2020大会」とする)が開催される年となり、機運の高まりを見せています。1964年に行われた東京オリンピック競技大会(以下、「東京1964大会」とする)当時の社会は、高度経済成長によって大きな変貌を遂げました。一方、それから56年が経過し、東京2020大会を迎える中で、社会がどのように変わることが期待されるのでしょうか。今回は、東京1964大会と東京2020大会の両方で競技場などの設計に関わった空間構造デザインの第一人者・斎藤公男氏、パラリンピアンとして過去3大会に出場し東京2020組織委員会アスリート委員をはじめさまざまな立場で活躍する田口亜希氏をゲストに迎え、東京2020大会の意義や将来への希望、レガシーの継承などについて、三村明夫会頭と語っていただきました。(聞き手・櫻庭由紀子)

日本が大きく変わった1964年 ―――― 三村会頭

――東京1964大会を振り返ってみていかがでしょうか。

三村 大会時は入社2年目で、通勤時に利用していた中央線の窓から、どんどん首都高速が形となるのを眺めていました。新幹線や地下鉄なども次々に造られ、日本がオリンピックに向かって大きく変わっていく姿を目の当たりにできたのは本当に素晴らしい経験でした。

当時は訪日外国人の数も非常に少なく、年間35万人程度だったと聞いています。それでも、来てくれた人に粗相があってはならないという想いから、永野重雄日商・東商会頭は外国人への接客対応の向上に力を入れていました。取り組みの一つとして、外国人が安心して買い物ができるよう、東商が優良店を「IGS(INTERNATIONAL GOOD-WILL SHOP)」として認定し、選定証書を交付していました。

外国人向けの宿泊施設などもこの頃に数多く建設されました。国民の生活はまだまだ貧しかった頃ですから、当時の国力にしては設備投資の規模は相当大きかったはずです。

斎藤 1964大会の開催地が東京に決定したのは1959年のこと。当時私は大学3年生でしたが、戦後復興の雰囲気が漂う中、日本でオリンピックが開催されると聞いて驚きました。

当時は敷地や予算の問題に対する世間のバッシングが相次ぎ、61年になってようやく会場の設計チームが結成されました。幸運にも大学院1年生の私は国立屋内総合競技場(以下、代々木競技場)の構造設計を担当した坪井善勝先生の研究室に在籍し、このプロジェクトに関わることができました。

プロジェクトではデザインチームと構造チームが一丸となって代々木競技場を造ろうと一致団結していました。メンバー全員が「復興だけではなく、世界中に日本のすごさを見せようじゃないか」と意気込んでましたね。

代々木競技場のプロジェクト開始時には大会開催まで既に4年を切っていたので、その間に設計と施工を同時並行で進めていかなければなりません。施工期間はたったの1年半。この短期間で、あれだけの施設を造ったというのは、まさに奇跡としか言いようがありません。

洗練されていて無駄がなく、しかも非常に日本的な雰囲気と美しさを持ち合わせたものとなりました。これまでに誰も見たことがない競技場に仕上がったと思いますし、21世紀の今となっても最高傑作だと感じています。

先人の活動があってこそ ―――― 田口氏

――東京1964大会ではパラリンピックも開催され、日本人が初めて出場しました。

田口 残念ながら、オリンピックの後に東京1964パラリンピックが開催されたことについて、当時は知らなかった人が大半でした。ただ、その当時から多くのボランティアがパラリンピックの選手を支えていたそうです。

東京1964パラリンピックには53人の日本人が出場しているのですが、その多くが病院や施設から救急車で会場に向かっていたと聞いています。自宅で暮らしたり、働いたりしている障がい者が少なかったことに、私はとても驚きました。

一方、欧米の選手たちは自国に仕事を持っていて、夜になると選手村からタクシーを使って銀座に買い物や食事に行っていたそうです。そんな彼らの姿を日本人が見て驚き、東京パラリンピックを契機として、障がい者スポーツが広く認知され普及し、障がい者の自立や社会参加、社会貢献を考えるきっかけになったと聞いています。東京2020大会で何をつなげていけるのか、私たちは考えなければならないと思います。

取り組みのマイルストーンに ―――― 三村会頭

三村 現在の日本の経済成長率は1%程度ですが、その頃は9%でした。まさに高度経済成長の真っただ中と言っても良いでしょう。給料も毎年上がっていきました。新しい建物の建設や、交通などのインフラ整備が次々に進み、みるみる世の中が変わっている状況でした。

その一方で、東京にはごみが溢れ、公害問題も深刻でした。オリンピックを契機に、こうした環境問題を解決しようという動きが出てきたのです。

当時はまだ貧しかったですが、将来に対しては、大きな希望が持てる世の中だったと思います。こうした中で開催された東京1964大会は、日本が先進国の仲間入りをするという機運が一気に燃え上がった記念すべき出来事だったと思います。

田口 私はまだ生まれていませんでしたが、日本人がみんなでごみを拾ったりしたという話を聞いたことはあります。母が新幹線に初めて乗った話を何度もうれしそうに話してくれました。新幹線や高速道路の開通は日本の発展の象徴だったのですね。

三村 将来に希望を持てるということは、人の幸せの大きな部分を占めるのではないかと思います。そういう意味では、当時はとても幸せな時代でした。

斎藤 戦後の何もない時代から、たった19年で「こんなことができるんだ」と自信が持てたことは大きかったですね。

三村 日本は現在、人口減少や人手不足などの課題があり、特に中小企業にとっては非常に厳しい状態です。アベノミクスによって経済状況は改善し、足元の安心は確保できたかもしれませんが、社会保障の持続可能性などを含め、人々は将来に大きな不安を持っています。また、一人当たりの生産性や所得においても、日本はOECD諸国の中で下位に落ち込んでいます。このままでは果たして国際的に発信力のある一流国として持続していけるのか、懸念されています。

このような状況の中で、東京2020大会を、さまざまな社会課題を解決する取り組みの「マイルストーン」にしていけば良いと思います。例えば、最新のデジタル技術を使った生産性の向上や人手不足対策などの具体的なプロジェクトを進めていくことが非常に重要です。デジタル技術を農林水産業、インフラ整備、医療など幅広い分野に活用することにより、人手不足を解消し、1人当たりの生産性を向上させることができます。

また、われわれは東日本大震災など大きな災害を体験しましたが、みんなが一生懸命になって復興への努力をしてきました。今大会は、日本がさらに成長する姿を世界に発信できる絶好の機会になるのではないかと期待しています。

斎藤 東京の発展が地方のインフラや文化などに影響を及ぼすことを考えると、東京2020大会を契機として東京に魅力的な施設や街を造ることは、地方にとっても良い波及効果になるのではないかと思います。

日本の精神性と技術力PR ―――― 斎藤氏

三村 2020年の訪日外国人観光客は4000万人を目標としていますが、その6割はリピーターです。東京2020大会をきっかけに多くの外国人に初めて来日いただくことは、将来のリピーターを増やす大きなチャンスです。

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