年が明け、ついに東京五輪開幕の年となった。人生をかけて大舞台に挑む競技者にエールを送るのは、バルセロナとアトランタの2大会連続でメダルを獲得した有森裕子さん。現役引退後、「アスリートの地位向上」を目指し活動してきたという自身の体験を振り返りながら、オリンピアンの生きる道について語ってくれた。
メダル獲得後は賞賛より大きな逆境が待っていた
バルセロナ五輪で銀メダルを獲得し、熱狂の中にいた有森さんは、そこから「人生で最も辛い4年間」がやって来ようとは夢にも思っていなかったと言う。そのころのマラソン界では、メダルを獲得したら引退か、古巣に戻って駅伝から再スタートするかの二択だった。当時、監督を務めた小出義雄さんからも「次は駅伝だな」と提案されたそうだが、当人は「駅伝を走りたいわけじゃない。マラソンランナーとしてもっと強くなりたい」と強い違和感を覚えたという。
しかし、有森さんの思いの受け皿は、当時の陸上界にはなかった。なにしろ有森さんの銀メダルは、人見絹枝さん以来64年ぶりの快挙であり、世界レベルに達したランナーの「その後」について指南できる人も環境も整っていなかったのだ。以来、チームの意向と自分のやりたいことがかみ合わず、苦悶(くもん)するようになる。例えば、海外のトップランナーの練習法に学び、筋力トレーニング中心の合宿を組むなど自主的に動くと、「勝手なことを」とチームに煙たがられた。
「当時から日本の選手は恵まれていました。環境も体制も全て整っていて、それなのに勝てない。となると、自分たちのやり方に危機感を持ち、前に進むための工夫をしなければならない、と私は考えたのです」
ロールモデルにしたのは、バルセロナでともに戦ったロシアのエゴロワ選手だった。彼女は、ソ連崩壊後、レースで得た賞金で専属コーチやスタッフを雇い、筋力トレーニングを取り入れ、バルセロナで金メダルを獲得した。エゴロワ選手の自律性に、感じるところがあったと言う有森さんは、語気を強める。
「当時から、外国人トップランナーの多くは、個人スポンサーをつけ、走ることで生計を立てていました。それに対して日本では、アマチュア規定に阻まれ、メダリストも半年経ったら『ただの人』という風潮がありました。酷ですよね。競技人として生きていく期間は短く、その後の人生の方がはるかに長いというのは」
「アスリートの地位を高めたい」。有森さんのそうした主張は、わがままとして受け流された。アスリートが金銭の話題に触れるのは、スポーツマンシップに反するという風潮があったからだ。周囲やメディアにこぞって「有森は天狗(てんぐ)になった」と揶揄(やゆ)され、どんどん孤立していく……。そのうち、足底筋膜炎で踵に痛みが出るようになった。思うように走れないのは、けがのせいなのか、それとも自分の在り方に問題があるのか。答えが出ない日々が2年半続き、1994年、有森さんは大きな決断をする。
手術を受け再起を図ることで、自分で自分の未来を切り開こうとしたのだ。結果、手術は成功。翌年、北海道マラソンで優勝し、アトランタ五輪のスタートラインへ。
「自分の主張が間違っていないと証明するためにも、メダルを獲得する必要がありました。圧倒的な成果を出さないような人間が思いを語ったところで、誰も耳を傾けてはくれませんから」
あまりに大きなプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、有森さんは走った。そして、銅メダルを獲得し、「初めて自分で自分を褒めたい」と感極まったのは、苦しい4年間に打ち勝ったことを意味していたのだ。
アマチュアスポーツ界につくった「生きる道」
「私はみんなと違うことを『悪』とする価値観ではなく、違いを受け入れ、選手の主体的な活動を支える環境をつくりたかったのです」
アトランタ五輪後、有森さんは、「アスリートのプロ宣言」を行い、肖像権の自主管理などを訴え、CMにも出演した。日本陸上競技連盟と協議した結果、プロ活動は認められ、走ることは有森さんにとって本当の意味で「仕事」になったのだ。その後、高橋尚子さん、北島康介さんといった金メダリストらが次々プロ転向したことは、記憶に新しいところだろう。
現在、選手を支援する立場に変わった有森さんは、若い世代にエールを送る。「競技者として目指すのは『ライスワーク』なのか『ライフワーク』なのかを明確にして、その目標にあったトレーニングを積むことが大切です」
お金をもらって走るのであれば、それはライスワークだ。試合で勝ち、結果を出すことが仕事となる。これに対して、自分のお金で自分のために走るのは、ライフワークだと有森さんは語る。
代表例は、プロに転向する前の川内優輝さん(現在はプロに転向)。彼は、大学卒業後、埼玉県庁に入庁した。自分のお金で自分のために走った川内さんは「市民の星」として圧倒的な知名度を誇っている。プロ引退後も、講演会、ゲストランナー、テレビや雑誌に登場することもできるだろう。これも、走ることを仕事にする、一つの形だ。
障がいの有無に関わらず、多様性を尊重する社会へ
もう一つ、有森さんが10年以上尽力してきたことがある。障がい者支援活動だ。2008年から「スペシャルオリンピックス日本」の理事長を務め、オリンピック競技に準じたさまざまなスポーツを通して、知的障がいがある人の自立と社会参加を促進している。その知見と経験が買われ、昨年6月から新たに「日本障がい者スポーツ協会(JPSA)」の理事に就任、活動の幅を広げている。
「私の母親が養護施設の隣にある看護学校で事務員をしていましたが、そこには自分たちとは違う不便さがある人たちがたくさんいました。そうした中で母は『障がいは特別なものではない』と教えてくれました。中学3年生のときには、特別学級に属し知的障がいがあるお友達とともに学んだ経験もあります」
スポーツの力を知る有森さんは、健常者と知的障がいがある人たちがともにスポーツを楽しむ「場」を提供してきた。スポーツを通じ、健常・障がいの関係なく、ともに汗を流すことで、心の距離を縮めることができると確信する。
「『自分たちと違う人に対して勝手に抱く固定観念こそが障がい』です。私たち健常者は、障がいがある方々の事情をもっと知れば支えられるし、障がいがある方からも、自分たちの実情を自主的に情報発信してほしい。私たちは、共生する仲間です。片方からの歩み寄りではなく、双方が『違い』を認め合う世の中になればうれしい」
それまでキリッとした表情で取材の質問に答えていた有森さんが、ふっと頬を緩めた。孤独と戦い、自由を手にした人のおおらかな笑顔だった。
有森 裕子(ありもり・ゆうこ)
元マラソン選手
1966年岡山県生まれ。就実高校、日本体育大学を卒業して、株式会社リクルート入社。バルセロナオリンピック、アトランタオリンピックの女子マラソンでは銀メダル、銅メダルを獲得。引退後は、アスリートのマネジメント会社を設立。そのほか、NPO法人ハート・オブ・ゴールド代表理事、スペシャルオリンピックス日本理事長、日本陸上競技連盟理事などを務める。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。株式会社アニモ所属
写真・後藤さくら
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