十八楼
岐阜県岐阜市
芭蕉が名付けた「十八楼」
岐阜市を流れる長良川は、宮内庁式部職鵜匠による御用鵜飼でも知られている。その川沿いに建つ十八楼は、万延元(1860)年創業の温泉旅館で、毎年5月から10月の鵜飼の時期だけでなく、一年を通じて多くの湯治客を迎えている。貞享5(1688)年、かの俳聖・松尾芭蕉が長良川を訪れた。芭蕉はその風景の美しさに感動し、中国の景勝・西湖十景と瀟湘(しょうしょう)八景にちなみ、河畔の水楼に十八楼という名前を付けたという。
それが旅館の名前になったことについて、十八楼の若女将(おかみ)を務める伊藤知子さんはこう語る。
「以前はその由来も創業年も分かっていませんでした。そこで郷土研究の先生のご協力で調べると、初代が万延元年に山本屋から十八楼に改名したことが分かりました。当時すでに廃絶していた水楼を再興したいという思いからでした。十八楼と1860年でゴロがいいということもあり、この年を創業年としました」
その後、第一次世界大戦後の好景気で長良川河畔は鵜飼い見物客でにぎわい、十八楼も大繁盛。五代目の末吉は、当時珍しい木造3階建てに新築した。ところが昭和8年、五代目は50歳で亡くなり、まだ5歳だった長女の久子さんが六代目を継ぐ。久子さんは知子さんの祖母にあたる。「当時まだ幼かった祖母の代わりにこの宿を守ったのが、祖母の後見人である伯父でした。私は小さいときに祖母からそのころの苦労した話を聞いていて、大変な思いはしても、ちゃんとこの旅館を守ってくれる人はいるのだと感じていました」
婿養子の外の視点で経営
戦後間もなくして後見人の伯父が亡くなり、戦後の食糧難のなか、当時17歳だった久子さんは妹とともに十八楼の復興に取り組んだ。そして昭和24年に久子さんは結婚し、夫の公平さんが婿養子として七代目を継ぐ。現在の社長である八代目の善男さんも婿養子で、知子さんはその娘。知子さんも婿養子を迎え、夫の豊邦さんが九代目に就くことになっている。つまり三代続いて婿養子が館主を務めることになるが、これはたまたまそうなっただけと知子さんは言う。
「ただ、当館は家族経営の旅館なので、外から入ってきた男性が後を継ぐことで、この旅館の良さや変えなければいけないことなどを客観的に見ることができた。それが経営に生かされて今の繁栄につながったと思います。私の主人もサラリーマンをしていたので、これからも大企業で培った経験や知識を取り入れて旅館経営に生かしていこうと考えています」
二人は平成15年に結婚すると十八楼に入社し、知子さんは若女将、豊邦さんは常務取締役として旅館経営に携わるようになった。ちょうどそのころ、ホテルや旅館の形態に変化が訪れていた。
「それまではバブルの影響で旅館よりも豪華なホテル、客層も男性の団体客がメインでした。それが個人客にターゲットが移り、予約方法も旅行業者任せだったのが、お客さま自身がネットや口コミなどを頼りに宿を選んで予約をするようになってきました。また、宿選択の決定権も男性から女性にシフトしていきました」
地元に愛される老舗旅館へ
観光ホテルから老舗旅館への変革のため、十八楼は7年かけて最上階の7階から、1年ごとにワンフロアずつ内装を変えていった。
「少し変えてお客さまの反応を見て、足りないところや変えるべきところを次の改装に生かしました」
部屋のドアが並ぶ殺風景な廊下を、落ち着いた色調の木を使った格子造りの壁に変えた。また、間接照明にしてところどころに伝統工芸品を置くことで、老舗旅館にふさわしい雰囲気にしたほか、大浴場も大きく改装して贅沢な雰囲気を出したことで、人気が上がった。県庁所在地にあって行きやすくもあり、特に岐阜県内の客が増えていったという。
「これからの旅館業は、守るべきものは守り、時代によって変えるべきものは少しずつ変えていかなければなりません。守るべきはおもてなしですが、お客さまに温かいくつろぎをご提供するうえで必要なものが、経営面で効率的でないと感じられるものも多いのです」と知子さんは言う。例えば、宿泊客を接客係が部屋まで案内し、お茶で一服してもらいながら館内を説明することもその一つだ。
「このような接客は残していきますが、旅館業界は人手が減ってきており、合理化も必要。おもてなしという贅沢と合理化、いつもこのせめぎあいですが、欲を出さず冒険しすぎず、身の丈に合った経営をしていきます」
これからも流れ続ける長良川のように、十八楼のおもてなしも絶えることなく進化していくことだろう。
プロフィール
社名:株式会社十八楼
所在地:岐阜県岐阜市湊町10番地
電話:058-265-1551
代表者:伊藤善男 代表取締役(八代目)
創業:万延元(1860)年
従業員:約300名
※月刊石垣2016年5月号に掲載された記事です。
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