白砂青松で有名な観音寺市の歴史は大宝3(703)年3月21日、法相宗の僧である日証上人が、琴弾八幡宮を建立されたときに始まります。そのおよそ100年後に当たる大同2(807)年、弘法大師が神宮寺(今の観音寺)に聖観音の像を安置。現在のように観音寺と称するに至りました。
観音寺には有明浜の白砂に描かれた銭形砂絵「寛永通宝」があります。これは、東西122m、南北90m、周囲345mもある巨大な砂絵です。この銭形を見れば健康で長生きし、しかもお金に不自由しないと伝えられており、多くの人がこの地を訪れています。また、讃岐うどんの出汁に使われる伊吹島いりこ(カタクチイワシの煮干しのこと)の産地でもあります。
私の祖先は長年、観音寺市の隣町である三豊市仁尾町に住んでいました。明治維新までの仁尾は、自然に恵まれた良港で海上輸送拠点の一つとして栄えていました。しかし、明治以降は鉄道や国道などの整備が遅れ、その機能が失われていきました。その一方で、観音寺には鉄道駅(現JR四国予讃(よさん)線観音寺駅)が開業。これを契機に大正12(1923)年、私の祖父は観音寺駅を拠点として、県内でも先駆けとなるハイヤー・タクシーによる旅客輸送業を創業しました。続く父の時代には、戦前・戦後はもとより、高度経済成長期を通じ、地域の発展とともに順調に事業を発展させてきました。
しかし、その父が突然亡くなり、当時大学生であった私が後継者となることになったのです。それ以来、今まで何度も厳しい局面を経験してきました。しかし、創業以来の信用と経営基盤があったおかげで、何とかこれまで事業を継続することができました。直接の薫陶は受けられなかったものの、堅実経営を旨としながら、時代の変化に応じ、時に果敢な経営判断をしてきた先代の経営姿勢は、私もしっかり受け継いでいるつもりです。
今日では、すでに後継者に会社運営を任せるようになっていますが、先代から続いている毎朝5~8時ごろまでの車両配車業務は続けています。この業務を務めるためには、前夜の就寝はもとより、日ごろの健康管理にも自己点検と責任感が必要です。これは、私がまさに乗務員や社員に要請、期待している就業姿勢です。私は今でも当事者の一人と自認して実践しています。明日もまた、起床とともに私の生活がスタートします。
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