2010年1月、WBA世界スーパーフェザー級チャンピオンとなり、昨年の大みそかには8度目の防衛に成功したプロボクサー・内山高志さん。一撃で相手を倒す驚異的なパンチ力から、〝ノックアウト・ダイナマイト〟という愛称を持つ。ディフェンス力も兼ね備えており、日本のボクシング史上最強のボクサーの一人である。また、10年10月から地元・埼玉県春日部市の「かすかべ親善大使」を務め、地域の発展にも貢献している。
強くなりたい一心で地道に休まず練習
パンチ一振りごとに、大きなどよめきが起こる。歴代KO率ナンバーワン。内山さんは好戦的なファイトスタイルで、多くのファンを魅了している。
ボクシングとの出合いは中学2年生のとき。何気なくつけたテレビから、ボクシングの試合中継が飛び込んできた。映っていたのは辰吉丈一郎さん。相手を挑発しながらノーガードでパンチをかわす辰吉さんの戦いぶりに圧倒された。
ボクシングをやろうと決めた内山さんは、埼玉県下でも一、二を争う強豪校、花咲徳栄高校に入学。3年時には国体で準優勝し、卒業後はボクシングの名門・拓殖大学へ進学する。ところが、ここで厳しい現実に直面する。
「同級生はインターハイや国体、選抜でチャンピオンに輝いたスポーツ特待生ばかり。国体で準優勝といっても僕は無名同然です。補欠にすら選ばれず、レギュラーになった同級生の雑用係として荷物番をしていました。あの時の屈辱は今でも忘れません。悔しくて仕方なかったです」
しかし、決して投げやりになったり、気持ちが腐ったりすることはなかった。
「ボクシングが好きだったのでやめようとは思いませんでした。絶対に這い上がってやるという思いが原動力となり、それから必死に練習しました」
大学の練習は一日たりとも休まず、休みの日も母校の花咲徳栄高校でサンドバッグを打った。週7日、毎日ひたすら練習を続けたのだ。その努力が実ったのは大学1年の11月の全日本選手権。3回戦で対戦したのが同じ拓大3年のレギュラーの先輩だった。
「みんなは『内山終わった』と言っていましたが、内心、これはチャンスだなと感じました。勝てるとは思っていなかったのですが、ここで良い試合をすれば、レギュラーになれるかもしれないなと。そうしたら勝ってしまったんです」
毎日練習してよかった。努力したらいいことがあると実感した瞬間だった。
「あの試合が今でも僕の原点です」
大学卒業後はボクシングをやめるつもりでいたが、大学生最後の全日本選手権で初優勝したことから現役の続行を決意。国体に向けてボクシングの強化を目指す高知県にある建設会社で働きながら競技を続けた。国際大会を何度か経験するうちに、周りからアテネ五輪を目指したらどうかと言われ、東京の旅行会社に転職。営業マンとして勤務する傍ら、五輪へ向けてのトレーニングを積んだ。
ところがアジア地区最終予選で惜しくも敗退。オリンピック出場はかなわなかった。
「仕事と練習の両立が結構きつかったのもあり、未練はなく、ボクシングをやめることにしました」
もう後がない崖っぷちが力になった
練習のない日々。高校でボクシングを始めて以来、初めての経験だ。友達と遊ぶのも新鮮で楽しかった。だが、2カ月くらいたつと、何となくむなしさを覚えるようになっていく。「このまま目標もなく毎日を過ごしていいのかなって」
そんな時、ボクシングの試合を観に行くと、リングには戦っている友達がいた。カッコいい。うらやましかった。
「後悔しないようにやるなら今しかないという気持ちがだんだんと高まり、以前から何度もスカウトに来てくれていたワタナベボクシングジムに入りました」
プロ入りをためらっていた理由には父親の存在もあったという。
「もともとボクシングには反対で、プロ入りしたいと言った途端、口を利いてくれなくなりました。当時、父は病気で入退院を繰り返していました。僕は25歳、プロ入りするには遅い年齢です。これで結果を出せなければ、何も残らないし、何の親孝行もできないことになってしまう。もう僕には後がないのだと、崖っぷちに立たされたような感じでした」
何が何でも勝つしかない、負けられない。適当にやっていたら、本当に親不孝者になってしまう。そう思うと居ても立ってもいられなかった。以前とは比較にならないほど厳しい練習を自らに課し、打ち込んだ。そして、その成果は如実に表れていく。プロデビュー戦をKOで飾り、以後も連勝続き。2010年1月には念願のWBA世界スーパーフェザー級王者となった。
「プロ3戦目の数週間前、父の見舞いへ行きました。気まずくて、まともに話ができなかったのですが、その時初めて『試合頑張れよ』と。最後の言葉でした」
小さな目標を一つずつクリアしていく
昨年暮れ、8度目の防衛を果たした内山さん。現在の日本人世界王者の中で最高齢の34歳ながら、いまだ衰えることはない。それどころか、「30歳を超えてからも自分の肉体が進化し、強くなっているのを感じます」と語る。
「最近は、科学的なトレーニングも取り入れているので、肉体の数値は確実に伸びています。1年後2年後に自分がどれだけ強くなっているかが楽しみです」
では、どうして成長し続けることができるのか。そう聞くと、「僕は掲げる目標がいつも小さいのです。それが良かったのかもしれません」と話してくれた。
「高校時代は同級生の中で一番になれたらいいな、県大会に出たら次は関東大会に出たいな、ぐらい。大学でもリーグ戦に出たい、次は全国大会に出たいなって、そんなふうに小さな目標を設定し、一つずつクリアしてきた感じです。でも、その積み重ねがあったからこそチャンピオンになれたのだと思います。そのスタンスは今も変えていないですね。一日一日強くなっていけるよう、毎日努力するだけです。頑張れば、絶対に夢はかなうなどとは思っていません。でも、コツコツと毎日努力すれば、夢には近づきますし、未来は切り開けると思います」
所属するワタナベボクシングジムの会長・渡辺均さんは細かなことは言わず、頑張っている人には必ずチャンスをくれるという。そんな会長の影響を受け、ジムのリーダーとして後輩にも気を使う。
「何でもジムの仲間同士で話し、陰口を言わせない空気をつくっています。一応、僕がリーダー的な立場なので、特定の誰かと仲良くすることは避け、みんなと平等に接します。また、ジムの近くの寮で暮らす若手には何カ月かに1回、焼き肉を食べながらいろいろ話をしています」
地元・春日部の名前を広めていきたい
内山さんは、ボクシング以外の活動にも積極的に取り組む。10年10月に「かすかべ親善大使」に任命され、地元のイベントにも時折参加しているそうだ.
「育った場所で友達も多いので、今でも2週間に1度は帰っています。人が温かく緑も多くてとてもいいまちです。同じ春日部出身のクレヨンしんちゃんには勝てませんが(笑)、これからも防衛を重ね、春日部市の名を世界に広めていきたいと思っています」
実は春日部市では12年度から内山さんを題材にした道徳の授業を始めている。努力を怠らず、継続することの大切さを内山さんの生き方を通して学んでもらおうという試みだ。
「僕なんかでいいのかなって思うのですが(笑)」と照れる内山さんだが、小学生に絶大な人気を誇る。
「実家に僕の車が止まっていると近所の子どもが『内山君、帰ってるの!?』って遊びに来ます。僕も彼らが大好きなので、一緒にサッカーを楽しんだりしています」
春日部での凱旋試合だった5度目の防衛戦で、引き分けに終わってしまったことを悔しがる内山さん。「僕のために初めて会場に足を運んでくださった方もいたので本当に申し訳なくて。いつか必ず春日部で試合をして、勝つところを市民の方々に見てほしいです」。
ボクシングは命懸けのスポーツだ。それだけに、体力だけでなく精神力も鍛えなければならない。
「今の精神力はあくまでボクシング用であって、他の仕事で通用するかどうか、正直分からない。だけど、これだけキツイ練習を続けてきたんだから、どんなにキツイ仕事でも耐えられる根性は身に付いているかな」
ボクシングを愛し、地元を愛し続ける内山さん。どこまでも貪欲なのに決しておごらない。進化を続けるチャンピオンの今後の活躍から目が離せない。
内山 高志(うちやま・たかし)
プロボクサー
1979年長崎県生まれ、埼玉県春日部市育ち。花咲徳栄高校でボクシングを始め、拓殖大学4年時に全日本アマチュアボクシング選手権で優勝。卒業後はサラリーマン生活を続けながら、アマチュア4冠王に輝き、アテネオリンピックを目指す。だが、アジア予選で敗退。05年にワタナベボクシングジム入りしプロデビュー。07年9月、OPBF東洋太平洋スーパーフェザー級王座を奪取し、5回防衛。10年1月、WBAスーパーフェザー級チャンピオンの座を獲得し、13年12月には8度目の防衛を果たした。現在、21勝(17KO)1引き分け無敗
写真・BOBY
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