国籍を移すのは、いまはそう難しくない。移民や難民の認定はこのところ厳しさを増すが、それでも20世紀以降は人が国境を越えて移動するようになった。混血も進んだ。むろん血統による特徴は身体や容貌にあらわれるから、いかにもフランス人という顔はある。だがもはや「その国の人の顔」がイメージの中だけになったのを、オリンピックを観ていて実感した。メダルの数に一喜一憂するのはどの国も同じだが、もともと民族神話は近代以降、ナショナリズムを鼓舞するためにつくられたという説もある。
▼日本はどうか。そもそも私たちの遠い祖先は、この島国にいろいろなルートから渡ってきたはずである。ユーラシア大陸との距離を考えれば、相当の勇気を伴う航海の果てにたどり着いたところに日本列島があった。
▼現生人類は20万年前にアフリカで生まれた。理由は分からぬが6万年前から世界に拡散し始めた。ベーリング海峡は陸続きだったから南米にも到達した。手段はほぼ徒歩と小舟。日本へのルートは、シベリアからサハリン経由、朝鮮半島から対馬経由、台湾から琉球列島経由の3つとされる。近年の遺伝子研究なども踏まえた定説だ。
▼今夏、この3つ目のルートを、当時の技術水準を想定した装備で渡る再現航海が試みられた。国立科学博物館の研究者らが綿密な計画を立て、地元の協力で実行された。台湾から与那国島まで100キロ余り。草を束ねた、葦船ならぬ草船に木製のオール。初めは順調なるも次第に黒潮に流され始め、人力では修正困難と判断して断念した。古人の渡来は偶然だったにせよ、確かな航海術を身に着けていたと推定される。3万2千年前のわが遠い祖先に頼もしさを感じた夏だった。
(文章ラボ主宰・宇津井輝史)
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