特別寄稿 最近の労働災害の状況とその対策 ~経営者に求められる役割とは~

(図)業務災害補償プランの商品構成

労働災害(労災)が多様化している。従来は業務上の作業に伴うけががその代表例であったが、近年では、ストレスに起因する不健康により仕事中に体調を崩して仕事の犠牲になることもそれに含まれ、新しい労災と呼ばれる。その件数は増加傾向にあり、経営者自身が率先して労災対策に取り組むことが求められている。特集では、最近の労災の状況やその対策における経営者の役割などについて、東京海上日動リスクコンサルティング主任研究員の橋本幸曜氏の特別寄稿を紹介する。

労働災害と保険

本来、労災はあってはならないものであるが、本当に労災をゼロにすることは困難である。従って、労災が存在しないことを前提に事業を運営することはあまりにも楽観的であると言わざるを得ない。そのため、事業を運営する上では、どのような業態であっても必ず、万が一労働者が被災した場合の補償を図ることが求められる。

労災補償の枠組みの、最も基本になる制度が、「労働災害補償保険法」によるいわゆる政府労災保険である。政府労災保険では、従業員が業務上または通勤途上において負傷し、疾病にかかり、または死亡したなどの場合に、本人または遺族の救済のため、最低限の保険給付を行う制度である。しかし、例えば後遺症が出た場合などが典型的だが、実際には政府労災保険の支給額では賄いきれないことがあり、被災者が経済的な困窮に陥るケースは少なくない。労災の場合、このようなケースが生じると最終的には企業が補償を求められることが多く、少なからぬ金銭が必要となることが多いため、これを賄うために、民間の保険会社などによる、いわゆる上乗せ労災保険商品が存在する(「商工会議所保険制度」では、業務災害補償プラン(図参照)が、それに当たる)。

近年の労働安全を巡る動き

再び警戒される労働災害

日本において、最も労災が多かったのは高度経済成長期である。その後、例えば厚生労働省の労働安全衛生計画に基づく官民を挙げての労働安全対策の取り組みが進められ、近年は往年の3分の1程度に減ってきてはいる。しかし、この10年ほど様相に変化が生じている。長年右肩下がりの逓減傾向にあった労災件数が、年度によっては増加傾向を示す事態となっている。また、旧来は認識されていなかった、ホワイトカラー・第3次産業の労働災害の存在が明るみに出るなどといった新しい傾向が表れている。

近年は、ややもすれば労働災害対策の取り組みは、既に解決方法の見いだされた旧時代の経営課題と見なされる向きもあったが、状況は一変しており、改めて新たな経営課題と捉え、本腰を入れた対策を行うことが、経営者に求められている。(表1参照)

メンタルヘルスと健康経営

労災というと、旧来型の労災つまり作業に伴うけがのイメージが強いが、実際には労災の範囲はより広範である。労災とは、業務により、労働環境や作業・その他業務により労働者が負傷したり病気になることを指すが、この中には、ホワイトカラーの過労死の問題や、精神疾患などの病も対象に含まれ得る。

特に、近年はいわゆる第3次産業従事者数の全産業に占める割合が大きく増加している。例えば、終戦直後の昭和25(1950)年にはわずか29・7%にすぎなかった第3次産業の従事者数の割合は、高度成長期後の昭和55(1980)年には55・4%に、そして平成22(2010)年には70・6%に至っている。

ここ最近急速に存在感を増した第3次産業の従事者の労働に伴う病気も、当然労災に相当する。現代においては第3次産業の労災対策に取り組まずして、労災対策に取り組んでいるとは国としても言えない状況にあるといっても過言ではない。

職業別に見てみると、高度経済成長期には全体の2割弱にすぎなかった専門的・技術的職業従事者、事務従事者が、近年では全体の4割近くに上る状況になっており、中でも専門的・技術的職業従事者が増えている。つまり、ホワイトカラー的な働き方が増えているといえる。

ホワイトカラー的な働き方では、いわゆる切れ・挟まれ・巻き込まれなどのけがによる労災は考えにくいが、実際には仕事の中で体調を崩し、仕事の犠牲になる労働者は多い。これらは新しい労災などと呼ばれるが、その要因には、ストレスに起因する不健康や、メンタルヘルスなどに関する課題があることが知られている。(表2参照)

このような社会状況を背景に、近年メンタルヘルス対策が急速に進んでいる。これらの取り組みの始まりは、平成4(1992)年の改正労働安全衛生法で盛り込まれた快適職場環境の形成に関する努力義務と、同法に基づいて示された「事業者が講ずべき快適な職場環境の形成のための措置に関する指針」(通称、快適職場指針)である。その後さらに、ストレスチェックの義務化を盛り込んだ26(2014)年の「労働安全衛生法」の改正で、この動きは加速している。

さらに、時を前後して、第3次産業において長時間労働による過労死の事案が複数生じたことで、この動きは社会問題化し、広く問題の存在が認識されるに至り、企業における働き方の改善に対する取り組みが随所で本格化する事態となった。そして、問題があるにもかかわらず、その問題を放置している企業は、「ブラック企業」と見なされ、今や採用活動への悪影響などはもちろんのこと、状況いかんによっては不買運動などにもつながりかねない状況にある。

さらに、マスコミに取り沙汰された事案に限らず、近年業務に伴う過労や心理的な圧迫による自殺などが労災に認定される。いわゆる安全配慮義務違反を指摘され、高額の賠償につながる事態は、ごく一般的なこととなった。今や、長時間残業や職場の人間関係の問題を放置することは、漠然とした「職場の雰囲気」にとどまる話ではなく、企業の経営に直接的な打撃を与えるリスクを放置することに他ならない状況になっている。

従来はメンタルヘルス対策をはじめとする快適職場の形成への取り組みは、ともすれば福利厚生のように見なされ、「後回し」になりがちであった。しかし、状況は一変し、経営層を挙げて積極的に取り組む「健康経営」という考え方が生まれている。

かつて、純粋な資本主義経済であった20世紀初頭、安全な作業環境をともすれば福利厚生の一つと捉えることが一般的であった最中に、状況を見かね労働環境を改善するべきだと考えたある経営者の思いから「安全第一、品質第二、生産第三」という考え方が生まれた。これと同じことが、一世紀の時を経て第3次産業・ホワイトカラーの仕事についても、健康という切り口から進行しているのが現在の状況といえる。

経営者に期待される役割

そもそも、労災のない企業をつくるためには、職場の従業員の自覚もさることながら、経営者の役割も非常に大きい。

例えば、多くの労災にはヒューマンエラーが関与している。多くのヒューマンエラーは誰にでも起こり得るものであり、事故や予兆が見受けられた場合には、その陰に類似の問題が職場に多数潜んでいるものと考えてまず間違いない。ヒューマンエラーが発生した場合には、ヒューマンエラーを犯した人に問題があると捉えるのではなく、職場全体に同様の問題があるものと捉え、職場全体を改善するというアプローチを取る必要があることが広く知られている。

労働環境における異常残業の問題なども同様である。例えば職場のある人、あるいは一部の部署の残業時間が突出している場合には、問題を抱えている人・一部の部署の無能として片づけるのではなく組織全体で改善に取り組まなければならない。

このような職場全体を対象とする改善を達成するためには、まずは、職場の従業員全員が同僚の問題も他人事と捉えずにわが事と捉えて真剣に考える風土が必要である。

職場全体を改善するためには、改善活動を行いやすい風土が必要である。改善を進めやすい風土とは、何かしらの問題が発生した時に、素直に問題に向かい合い、職場一丸となって問題解決に当たることが自然体でできる組織文化である。

実際に問題の少ない職場では、何らかの問題があるときには、問題点を率直に認識し、職場全体で対策を考えるといったことが当たり前のこととしてできている。逆に、問題が多い職場では、「問題は起こっていないはず」「報告を上げると後が面倒」「問題を報告しても、結局対策という名目で窮屈になるだけだ」などのように問題や労災事故が隠されたりするなど、問題を素直に指摘できないような風土があることが少なくない。

また、特に、リーマンショック以降、従業員を第一に考えるといった考え方をする余裕はなく、売り上げを第一と考えざるを得なかった企業は少なくない。即時性を持って顕在化する労災とは異なり、一見目に見えない健康への影響に対しては目をつぶり、むしろ逆向きの価値観で切り抜けてきた職場も少なくない。しかし、そのような姿勢は今後通用しない。

現在は、急速に景気が改善した反動で、人手不足にあえぐ企業も多い。優秀な人材をつなぎ留めていくためにも、今、大きく企業風土を変えることが、待ったなしで全ての企業に求められている。

従業員を企業の最も重要な財産であると考えるように企業風土を一転させるためには、経営の根底にある哲学を変え、人事制度を変え、さらには事業方法・業務設計をも変えていかなければならない。そのようなドラスティックな取り組みをリードできる人材は、経営者をおいてほかにはない。

労働安全の取り組みが進んでいる多くの企業では、例外なく経営陣が安全に関する確固たる信念を持ち、現場の従業員に折に触れて粘り強く働き掛け、改善活動を力強く支えている。このような企業の多くにおいては、健康経営についても積極的な取り組みが進められている。従来からの労災への対策を考える際の鉄則である安全第一・品質第二・生産第三のアプローチに見られる、従業員の幸福を最優先に考えて事業を設計する取り組みの仕方は、新たな労災に対しても有効である。

労働とは、人が生活をするために、そして家族の暮らしをより良くするためになされるものであり、働くことによって人がより豊かに、幸福になることはあっても、働くことによって不幸になることはあってはならない。従って、「朝、働きに出掛けた家族が、その日の勤務が終わり無事帰宅する」。このことを実現することは、雇用者たる企業にとって、極めて当たり前のことである。このことは、負傷に限らず、疾病そして従業員のメンタルヘルスについても共通している。

労働安全・労働環境の問題自体は古くからある課題であり、特に従来型の労災に対する労働安全の取り組みについては技術的に注意すべきポイントもほぼ明確になっている。しかし、労災は技術課題の側面を持つ一方で、「人」に関する課題でもある。そのため、労働安全を実現するためには人のマネジメントが極めて重要となる。特に昨今問題になっている新しい労災に至っては、人のマネジメントの成功なくして、決して取り組みはなし得ない。

しかし、人は物とは異なり、常に揺れ動く。たとえ同じ人が働いていたとしても、体の健康状態や心の持ちようは日々変わる。そのため、日一日として全く同じマネジメントが通用することはない。経営者たる者が常に自社で働く人に対して日々新鮮な関心と不断の愛情を持ち、自ら積極的に問題解決を図る努力をすることが、労働安全衛生の達成を成し遂げるためには不可欠である。