持って15年、早ければ10年
年間1万3000人と、全国有数の視察者数を誇る香川県高松市の高松丸亀町商店街は、しばしば「奇跡の商店街」と言われる。「土地の所有と利用の分離」という再開発手法の革新性ゆえ、そこには「他では実現しえない特殊な事例」という意味が込められている。
そんな見解に対して、「コミュニティさえ残っていればまちは再生できる」と語るのは、高松丸亀町商店街振興組合の古川康造理事長。多くの生活者が明るいアーケードの下をそぞろ歩く同商店街を久しぶりに訪れた。 中心市街地活性化基本計画策定から16年、A街区「壱番街」オープンから7年半が経過した高松丸亀商店街。1990年代半ばのピーク時には1日3万8000人あった通行量が、2005年にはその4分の1の9500人まで減少していた。
そんな衰退商店街が2006年には総事業費約66億円を投じて、イタリア・ミラノのガレリアを手本とした高さ32メートルのドームを要する商業施設「壱番館」を開業。しかも、三越高松店など有力店を組み込んだ集客施設として生まれ変わることのできた原動力はどこにあるのだろうか。
特筆すべきはその先見性にある。同振興組合では1973年に駐車場用地を購入、不動産会社を設立して駐車場経営を開始。ここで得た収益をまちづくりへ再投資することができた。
1988年に開催された開町400年祭は、再開発事業を見ていく上でエポックメーキングな出来事として記憶されている。108日間にわたるイベントを敢行したものの、「100年後に500年祭が今と同じ熱気で迎えられるだろうか」と、前庭幸男前理事長が抱いた危機感が再開発事業の研究を後押しし、1990年の青年会を中心とした「丸亀町再開発委員会」発足へとつながっていった。
「商店街全体で300億円売っていたピークのときでした。前理事長が『(高松丸亀町商店街は)持って15年、早ければ10年』と言い出したんです。まだ、若かった僕たちは本気で聞いていなかったんですが、とにかく言われるまま調査を始めると、〝ダメになったまち〟の法則に自分たちのまちが当てはまるんです。そこで大慌てで計画をつくり始めました」(古川理事長)
1988年に前理事長が出した指示とは、「成功した例は要らない。失敗した再開発を見てこい」というものだった。古村さんたちが目の当たりにしたのは、郊外店が勢いを増す中、かつての栄光が忘れられない店主たちはそれを軽視し、ついには自ら滅んでいく姿だった。
それを目の当たりにした古川さんたち若手は、本気で改革に取り組み始めた。
コミュニティの力こそ原動力
こうして壱番街の開業にこぎつけるわけだが、同商店街の開発手法の革新性は、定期借地権を活用し、土地の所有者と事業の運営者を分けた点にある。しかし、それは容易なことではない。この事業プランが成立するポイントは、地権者が土地を貸すまちづくり会社を信頼できるか、また地権者同士の信頼関係が構築できるかにかかっている。
「議論中、意見が対立してつかみ合い直前になることもありました。それでも、日を改めてとことん話し合う。そういうやりとりを4、5年続けるうちに皆の気持ちに変化が表れた。個人の利益よりも全体の利益を優先させなければと誰もが思うようになっていったんです。もしあのときゴリ押ししていたら、地域のコミュニティが崩壊していました。どんなに資金やアイデアがあってもまちは再生できません。でも、コミュニティさえ残っていればまちは再生できます」(古川理事長)
このコミュニティの力こそが丸亀町商店街の今をつくり出した。それは決して奇跡ではなく、営々たる人の営みの積み重ねなのである。
(笹井清範・『商業界』編集長)
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