アテネ五輪から4大会連続で出場し、ロンドン五輪の団体を含め銀メダル2個を獲得した元フェンシング選手の太田雄貴さん。平成25年に行われた「東京五輪招致プレゼン」で、男泣きする姿を見て親しみを覚えた人も少なくないだろう。メジャーではない競技を社会に認知させた立役者は、現役人生に終止符を打ち、「日本フェンシング協会会長」として新たな目標を見定めている。
五輪決定時に見せた涙の理由
平成25年9月7日、ブエノスアイレス。国際オリンピック委員会(IOC)総会でオリンピアン代表として最終プレゼンテーションを終えた太田雄貴さんは、仲間と共に今か今かと結果を待ちわびていた。そして|。IOCのジャック・ロゲ会長(当時)が「TOKYO」と読み上げたその瞬間、カメラも気にせず大粒の涙を流す太田さんの姿があった。その涙は、招致に向けてすべての関係者がいかに努力を重ねてきたかを示すものであり、日本中に感動をもたらした。「僕らは映画『アルマゲドン』の生還者のように報道されましたが、勝利へと導いてくれたのはロビー活動に尽力してくださった招致委員会のチームメンバーでした。スポーツ界、政界、官界などに人脈を持つ方々がしっかり役割分担をされ、世界中を駆け回っておられた。彼らの活動を間近で見せてもらえたことが、僕のかけがえのない財産になっています」
太田さんも自身の人脈を生かしてロビー活動に励み、慣れない英語でIOC委員に向けて、東京で五輪を開催する意義を訴え続けた。欧州発祥のフェンシングは、いまだに日本ではメジャー競技の位置付けをされてはいないものの、本場・欧州での太田さんの知名度は抜群だ。またIOCの現会長、ドイツのトーマス・バッハ氏は、元フェンシング選手でもある。太田さんが並々ならぬ覚悟で、招致活動に挑んだのには理由があった。「国際的な舞台に、フェンシング選手がアスリート代表として立つことで、親御さんたちにフェンシングをアピールでき、子どもがフェンシングを始めるきっかけになると思ったんです」。負けたら日本に帰れない。太田さんは、招致活動期間中の1年間は現役を離れ、実質「引退」という形をとった。それほどの覚悟を持って挑んだ招致活動だった。
“ニート発言”で名を上げる
太田さんは、8歳の頃に元選手だった父親の勧めでフェンシングを始めた。以来、五輪を夢見るようになったのは、メダルを取れば、フェンシング選手が社会的に認めてもらえるのではないかと子どもながらに願ってのことだった。京都・平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、18年アジア大会で金メダルを獲得する。同年の3月に同志社大学を卒業後、あえて就職はしなかった。北京五輪を見据えて選手活動に専念するためだった。
その決意は北京五輪の銀メダル獲得で結実する。これを機に、フェンシングが徐々に世の中に知られるようになっていった。太田さんのユニークな人柄もメディアの目に留まった。あるテレビ出演時に、「ニートです」と公言したことで、「ニート剣士」と報じられた。「就職先」として数社からオファーがあり、最終的に太田さんが選んだのは森永製菓だった。決め手は、高校時代に世話になった恩返しのためだったそうで、義理深い一面も見せる。
太田さんは、その後も進化し続け、4年後のロンドン五輪の団体で銀メダルに輝いた。競技者として世界の頂点に立ったのは27年。モスクワで行われた世界選手権で日本人初の金メダルに輝いた。しかし、世界王者はそのわずか翌年に突然の引退を表明をする。リオ五輪の初戦で敗退してしまったのだ。「4回も五輪に出場できて幸せな競技人生でした。未練はない」と、太田さんは晴れ晴れとした表情を見せたが、一方でこんな気持ちもあった。「リオ五輪という大舞台にもかかわらず観客席がガラガラであることに疑問を持った。もっと『観るスポーツ』としてインパクトがあれば、観客を沸かせられるだろうし、選手ももっといいプレーができるはずだ」
29年、太田さんは新たな人生の扉を開く。東京五輪に向けた高いリーダーシップを期待され、星野正史前会長らの推薦を受け、31歳の若さで日本フェンシング協会会長に抜擢(てき)されたのだ。
即断即決でメジャー競技へ
会長就任後の太田さんは、矢継ぎ早に改革を推し進める。「僕が会長になったからには、機動力をどんどん上げていきたい。『これがやりたい』といった建設的な話には全てゴーサインを出すようにしています。日本フェンシング協会は小規模団体です。前例がないため、今なら何をやっても評価されると思います」
一番の課題は、「脱マイナー競技」にすることだ。娯楽性を高めフェンシングに関心を持ってもらえれば、競技人口の拡大につながる。例えば、フェンシングの剣の動きが速すぎて「見えない」「ルールが分からない」といった課題があった。『観るスポーツ』として定着しなかった理由の一つだ。そこで、試合前に太田さんがプレゼンターになり身ぶり手ぶりでルール解説を行うことにした。またポイントが入ると床のLEDパネルが点灯し、観客からは一目瞭然で試合の動向が分かるような工夫もした。担当したのは電通のトップクリエーターとして多くの広告をつくってきた菅野薫さん。二人は、招致プレゼンで全世界に向けて発信したプロジェクト「フェンシング・ビジュアライズド」でも協業している、いわば“同志”だ。「フェンシング・ビジュアライズド」とは、剣先の軌跡を可視化することで、選手の動きを線で捉えることができるシステム。「五輪には約30もの競技があるにもかかわらず、なぜ、一流の彼らがフェンシングをサポートしてくれるのかというと、招致活動で共に汗を流した仲間だからです。あれから4年が経過した今も、切磋琢磨(せっさたくま)できる幸せを感じています」。そのほか、選手紹介ビデオを作成したり、VIP席を設けたり、表彰式のプレゼンターに元水泳競技者で金メダリストを招待し見どころをつくるなど、20以上の改革案を具現化した。費用はかさんだが、成果も出た。全日本選手権個人戦最終日決勝の入場者数は約1600人を数え、最低観客動員数から10倍に飛躍した。
太田さんに今後の目標について質問すると、「東京オリンピックを成功させること」と襟を正した。「最近は、『オリンピックに貢献したい』と相談してくださる中小企業が増えました。去年開催した『全日本選手権』や『高円宮杯』を支えてくれたのも中小企業の方々だったんです。大切なのは、互いに息切れしないよう適切な金額とサービスで連携していくことです」。今後さらに力を入れていきたいのは、スター選手を育成することだ。ただし、特定の選手に依存しすぎると、選手の成績に左右されることもある。個人の成績より、組織や仕組みを強化することでフェンシングはもっと面白くなる。「次なる一手は……まだ内緒。期待していてください」。太田さんは、少年のように瞳を輝かせた。
太田 雄貴(おおた・ゆうき)
日本フェンシング協会会長
昭和60年滋賀県生まれ。父親の勧めで小学校3年生でフェンシングを始め、小・中学校で全国大会優勝、インターハイ3連覇、歴代最年少の17歳で全日本選手権優勝。平成16年のアテネ大会で五輪に初出場し、20年の北京五輪でフルーレ個人銀メダル獲得。24年のロンドン五輪ではフルーレ団体の準決勝で逆転の末ドイツを下し、日本に銀メダルをもたらした。27年世界選手権で個人優勝を果たし、世界の頂点に立つ。東京五輪招致活動にも貢献した。29年から現職。
写真・後藤さくら
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