「元バレーボール日本代表の三屋裕子さんが、日本バスケットボール協会の会長に、なぜ?」と、選手時代の勇姿を鮮明に覚えている人ほど不思議に思うかもしれない。だが、東京2020オリンピックで女子が銀メダル、男子が45年ぶりに出場を決めるなど今勢いに乗る日本バスケットボール界。改革の旗手は三屋さん、その人である。
銅メダル獲得後に即引退 多彩なキャリアを築く
ジャンプしたときの最高到達点は約308㎝。長身を生かし、攻撃中心のセンタープレーヤーとして三屋裕子さんの活躍は全日本女子バレーボールの歴史に華々しく刻まれている。中学時代からバレーボール漬けの日々を過ごし、13年後の1984年、ロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得すると、その2週間後に現役を引退。同時にバレーボールの名門、日立製作所を退職し、國學院高等学校の教員となる。潔いまでの幕引きとセカンドキャリアへの移行はメディアを沸かせた。だが、三屋さんは当時を振り返りながら「ちょうど、テレビで『金八先生』が放映されていた影響もあって」とあっけらかんと笑った。
出身地の福井県では、当時から共働き世帯が多く、長男長女が家を継ぐものとされ、次女だった三屋さんは、手に職をつけて自立できるように育てられたという。さらに進学した筑波大学が自主自立の校風で、自分で考え行動することの楽しさを学んだと懐かしむ。
そうして培ってきた行動力と身体能力の土台を生かした努力でバレーボール選手としても頭角を現すのだが、本人の弁は違った。
「私、選手としては臆病でした」
練習では積極性に欠け、それでいて周囲の評価には敏感。たくさん届くファンレターは褒めてくれる内容を選んで読んだという。
「SNSで炎上なんてしたら立ち直れません」と気弱なコメントが続き、試合時の勇猛果敢なプレーとのギャップが広がるばかりだが、そこは三屋さんである。試合での積極的なプレーを問うと、「練習は延々続くけど、試合は勝てば終わりますから」と負けを想定していない負けん気がこぼれる。
教員も今ほど女性が働ける職種がない中で「職業」として選んだにすぎないと語る。実際、教員の枠だけには収まらず、高校教員を経て大学の教員や非常勤講師を務める傍ら、テレビのスポーツコメンテーター、スポーツ科学研究所の研究員、会社設立とスポーツを軸に、多方面で活躍していく。
そんな三屋さんに興味を持つ人物がいた。Jリーグの初代チェアマン、川淵三郎さんだ。
人生のキーパーソン川淵三郎さんと出会う
「あるテレビ番組で、これからのスポーツは地域が支えていくものとコメントする私を、どこかでご覧になったみたいなんです」と三屋さん。当時は実業団や学校が選手を育てることが〝当たり前〟とされていた時代で、「地域」といわれてもピンとくる人が少ない中、川淵さんは共感し、同じ価値観を持つ三屋さんに声を掛けてきた。
「サッカーは好き?」
この言葉から「選手時代」「教員・研究者時代」に次ぐ、三つ目の時代の幕が上がる。
「初めて電話をいただいた際『一緒にやってみない?』とのJリーグ理事への誘いに『勉強させてください』と二つ返事でお受けしました」
川淵さんのリーダーシップ、ビジネスパーソンとしての才覚を目の当たりにし、困った状況に陥っても感情的にならず、理事会もポジティブな発言が飛び交う。吸収したことは多かったという。
そしてその川淵さんが2015年、日本のバスケットボール界の大改革に乗り出したことから、三屋さんも〝巻き込まれて〟いく。当時の日本バスケ界は日本バスケットボール協会(JBA)のガバナンスが問題視され、国内男子トップリーグの分裂などさまざまな問題を抱えており、国際バスケットボール連盟(FIBA)から14年冬に国際資格停止処分を受けるほどの最悪な事態に陥っていた。選手は、性別・年齢を問わず国際試合に出場できず、オリンピックやワールドカップの予選にすら出られない。FIBAはタスクフォースを発足させ、JBAの立て直しと今後の発展の基礎づくりを担う理事会の再編を川淵さんに要請。川淵さんは有力な人材として再び三屋さんに声を掛けた。
「状況はニュースで知る程度でした。副会長に元参議院議員の故小野清子さんと私を指名してくださったのです。正直、相当驚きました」
「迷惑は掛けないから」とダメ押しされ「まずは1年」と承諾した。
日本バスケ界を抜本的に立て直す
15年、副会長就任時は、FIBAが提示する「JBAのガバナンス(組織統治)」「代表チームの強化」「二つの国内トップリーグの解消」をクリアしなければならない。Bリーグの発足、資格停止処分の解除など急ピッチで改革が進められる中、川淵さんが自ら設けた定年規定で1年の任期を終了し、その意志を継いでほしいと指名されて、会長に三屋さんが立った。
「方向性が示された改革を誰かが推進していかなければなりません。Jリーグの理事もそうですが、女性枠で入ったわけではなく、私自身が女性を意識したこともありません。プロスポーツ団体として、経済的に持続可能な組織運営にしていく。それが私の役割です」
日本バスケ界が目指す中長期の指標を定め、全国の都道府県協会専務理事やクラブ経営者、選手とも趣旨の理解と目指すべき方向性の共有を図った。だが、川淵さんが会長だった当初からバスケ出身者ではないリーダーにとっては逆風。三屋さんへの風当たりも相当で、改革にはしのぎを削った。
「会長就任当初は、大変じゃなかったことは一つもなかったです。でも『ガバナンスをやらないとFIBAから制裁を受けるので』と言うと、皆さん黙りますね」と笑う。
外部理事の積極的な発言を促し、選手とも交流を重ねた。オープンでフラット、かつ徹底した権限移譲の組織運営で、理事会の実効性を上げ、バスケ関係者の声の吸い上げに努める。
「あくまでシーズではなくニーズ。プレーヤーファーストというスタンスは揺るぎません」と三屋さん。
21年開催の東京2020オリンピックでは女子は銀メダルに輝き、男子は45年ぶりの出場で、国内外の日本バスケを見る目が大きく変わった。
「女子は金メダルを取るために、監督の指示ではなく自分で判断して動くという課題が明確になりました。男子はアジア最上位チームになればオリンピックに出場できます。まずはBリーグ強化です」ときっぱり。23年には「FIBAワールドカップ2023」のグループラウンドが沖縄で開催され、4期目の任期終了間近の同大会に向けて「日本バスケ界の大事な時期」と意気込みを見せる。
「JBAが理念に掲げている『バスケで日本を元気に』をさらに推進していく一年です」
そう語る三屋さんの目の輝きは、選手時代と少しも変わらない。
三屋 裕子(みつや・ゆうこ)
日本バスケットボール協会 会長
1958年生まれ。79年に全日本女子バレーボールチーム入りし、81年に日立製作所に入社。84年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銅メダルに輝く。引退後、教員として高校、大学の教壇に立ち、92年に筑波大大学院に進学して体育学研究科を修了。94年「サイファ」を設立。社長業を務めつつ、98年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)理事、2007年日本バレーボール協会理事などに就任。15年には日本バスケットボール協会副会長に就任し、翌年、同協会の会長に。現在4期目
写真・後藤さくら