2022年は、日本商工会議所創立100周年に当たる。そこで、今号は記念企画第1弾として、創業100年以上を誇る老舗企業の経営者であり、地域の商工会議所会頭も務めている当主に、創業以来取り組んできた経営の極意と会頭としての地域への思いを語ってもらった。
人の縁生かして事業を拡大させ会頭として地域発展に貢献
栃木県佐野市にある吉澤石灰工業は、1873(明治6)年に吉澤商店として石灰の製造・販売を始め、今年で創業149年を迎える。同社は佐野市の山間部で豊富に産出される石灰石やドロマイト(苦灰石または白雲石とも呼ばれる鉱石)を採掘し、それらを原料とする製品の製造・販売を行っている。これらの製品は鉄鋼や化学工業、環境、農業、土木建材など、幅広い産業で利用されている。
人との出会いが会社の大きな転機に
「吉澤家は鎌倉時代に上野国新田郡(現在の群馬県太田市周辺)を治めていた新田一族が始まりで、その地の吉沢村から吉澤姓を名乗るようになりました。戦国時代に佐野に移り住み、江戸時代にはつくり酒屋を始めたとのことです。そして1873年に、吉澤家十三代目の兵左(ひょうざ)が親戚から石灰業を引き継ぎ、吉澤商店を始めました」と、吉澤石灰工業会長の吉澤愼太郎さんは創業までの歴史を説明する。吉澤さんは新田家の祖から数えると二十九代目、吉澤家の初代からは十六代目、そして石灰業を始めた兵左から数えて四代目になる。
石灰業を始めて以来、さまざまな転機により会社は大きく発展していった。最初の大きな転機が浅野セメント(現・太平洋セメント)創始者の浅野総一郎さんとの出会いで、それにより86年から、東京・隅田川沿いにある深川セメント製造所に石灰石の納入を開始したのだ。それまでは産出した石灰は壁材や肥料として販売していた。明治維新以降のインフラ整備などで需要が増していたセメントの原料としての販売は、吉澤商店にとって大きな商売となった。浅野セメントは、渋沢栄一も出資者となっている。
「浅野さんとの出会いは偶然ではなく、初代・兵左はそのための努力をしていました。栃木の奥に引っ込んでいたのではなく、頻繁に東京に行く中で、浅野さんと出会ったのです」と吉澤さんは言う。
山間部で産出される大量の石灰石を東京まで運ぶため、地元の有志実業家らが中心となって出資し、鉱山から川まで結ぶ馬車鉄道を設立し、河岸からは船で東京まで運んでいった。この時期に初代は、事業に専念するだけでなく、会社がある葛生町の初代町長として1年ほど務め、地域のために貢献している。
将来の資源確保のために山林を買い入れていく
「二度目の転機は二代目兵左の時代で、日本鋼管(現・JFEスチール)を創設した白石元治郎さんと出会ったことです。この人は浅野総一郎さんの娘婿で、若いころ、うちの鉱山の近くにある浅野セメントの工場に勤務していたこともありました。白石さんが1912年に日本鋼管を創設することになり、製鋼には生(せい)石灰(石灰石を焼成したもの)が必要なことから、白石さんからうちにお話があり、14年の操業開始から、生石灰を納入するようになりました。最初に浅野さんと出会ったことで白石さんとも出会い、それが新しい商売につながっていったのです」
日本の製鉄業はまだ若い産業だったが、製鉄用生石灰は石灰業の新たな主要製品となった。当時は日本が好景気で鉄鋼の需要が増加しており、吉澤商店の生石灰の取引量も年々増加していった。
また白石さんは、吉澤商店が所有する鉱山の周囲でドロマイトの鉱床がないか調査するよう二代目に勧めた。ドロマイトは製鋼炉の耐火材に必要なもので、それまでは満州から輸入していたが、それが困難になり、製鉄会社は国内からの安定供給を求めていた。
「そこで二代目が調査を始めたところ大鉱床を発見し、周辺の山林を相場より高く買っていったそうです。それが戦後の鉱業法改正により今日のわが社の資源確保につながりました」
このようにして吉澤商店は、人との出会いから新たな商売への道を切り開き、それをさらに発展させていったのだった。そして28年には吉澤石灰工業所と改称し、39年には日本鋼管の資本を得て改組し、吉澤石灰工業株式会社を設立した。
さらなる発展のためにヨーロッパ製の焼成機を導入
「後に三代目兵左となる私の父は二代目の末妹の次男で、48年にまだ大学生のときに跡取り娘であった私の母と結婚し婿入り。50年に早稲田大学を卒業し、吉澤石灰工業に入社しました」
ところがその翌年に二代目が死去。入社間もなく26歳で社長に就任し、三代目兵左も襲名した。
「父はまだ若く、この頃は専務を務めていた親戚の茂一が社業の指揮を取りつつ、佐野商工会議所の会頭としても12年ほど地域の商工業の発展のために尽力しました」
そして10年ほどたつと三代目も力を発揮するようになり、大学で資源工学を学んだことから、その知識を生かして鉱山開発を積極的に進めていった。
「三代目が取り組んだ中で一番大きいのは、重油で石灰石を焼いて生石灰をつくる焼成炉を導入したことです。三代目はその焼成炉を輸入するためにヨーロッパに渡りました。最初に導入した焼成炉はうまく焼けなくて失敗したのですが、めげずに再度ヨーロッパに渡り、新たな焼成炉を輸入して建設し、68年に稼働が始まりました。そしてそれが、次の大きな転機につながりました」
福岡県北九州市にある八幡製鐵(現・日本製鉄)が千葉県君津市に製鉄所を建設することになり、石灰業者の選定をしていた。吉澤石灰工業には同業の日本鋼管の資本が入っていたが、同社の了承を得て選定業者の候補に名乗りを上げ、契約を取ることができた。選ばれた理由の一つが、すでに重油による焼成を始めており、その技術力が高く評価されたことだった。この受注により、君津の製鉄所構内に君津工場を設立し、焼成炉を建設して稼働を始めた。
会頭に就任する直前に大きな災害が発生
91年に三代目は会長となり、吉澤さんが四代目の社長として後を継いだ。42歳のときだった。三代目までは会社の代表者は兵左を襲名してきたが、先代が会長として会社にいることもあり、吉澤さんは襲名することなく社長に就き、会社経営のかじ取りをしていった。
「父が亡くなってからも兵左を襲名することなく、愼太郎のままで社長をやってきました。それで30年社長をやって72歳になったら次の世代に交代しようと思っていたのですが、70歳が近づき、時代も平成から令和に変わるということで、2年前の2019年4月に、長女の夫、松原維一郎が社長を引き継ぎ、私は会長になりました。それからすぐに佐野商工会議所の会頭になってくれというお話をいただき、これも巡り合わせだと思い、お引き受けしました」と吉澤さんは経緯を説明する。
ところが、吉澤さんが会頭に就く直前、大きな災害が起こった。19年10月上旬に東日本全域を襲い、各地で大きな被害をもたらした台風19号、通称「令和元年東日本台風」である。佐野市でも、河川の決壊や浸水が相次ぎ、大きな被害を受けた。吉澤さんが会頭に就任したのは翌11月である。
「そのとき、台風の被害で困っている企業には、商工会議所の会員、非会員にかかわらず、補助金申請などのお手伝いをするため、土日もシフトを組んで対応しました。職員たちが熱心にやってくれたおかげで、助かった人や企業が多かったと思います。これは今のコロナ禍でも同様です。みなさんが困っているときこそ、商工会議所は地元に役に立つ存在であることをアピールできると思います」と吉澤さんは力強く語る。
一方で石灰は、近年は有害物質処理剤としても使われ環境保護に役立っており、吉澤石灰工業は関連製品の開発にも力を入れている。
「石灰は産業の補助的な役割が多いですが、世の中に役立っている。私は会頭としても、佐野市に隆盛がもたらされるよう、商工業者が成長できるお手伝いをしていきます」
会社データ
社名:吉澤石灰工業株式会社(よしざわせっかいこうぎょう)
所在地:栃木県佐野市宮下町7-10
電話:0283-84-1111
HP:https://www.yoshizawa.co.jp/
代表者:吉澤愼太郎 代表取締役会長
創業:1873年
従業員:500人強(グループ会社含む)
【佐野商工会議所】
※月刊石垣2022年1月号に掲載された記事です。
災害やコロナ禍の支援が地域で認められるように
ここ数年は台風やコロナ禍で困っている事業者が多く、その支援に力を入れてきました。その後、組織率が上がってきており、商工会議所の活動が地域の人たちに認められた一つの証しと思っています。
日本商工会議所は、全国の中小企業のために先頭に立って活動しているので、ぜひその路線でやっていただきたい。日本の中小企業を元気にするためにリーダーシップをとっていただければ、われわれはそれとともに進んでいきます。
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