苦汁を求めて鳴門の地へ
「鳴門の渦潮」で有名な鳴門海峡の西側にあり、古くから塩づくりが盛んだった徳島県鳴門市に、富田製薬はある。その歴史は、創業者の富田久三郎(きゅうさぶろう)が静岡県で明治10(1877)年に苦汁(にがり)から純国産の炭酸マグネシウムの製法を完成したことから始まる。
「静岡での富田家の家業は火薬師で、鉄砲の火薬をつくっていました。その家系に生まれた久三郎は、火薬をつくる技術を利用して、さまざまな化学品をつくり始めていました。当時、炭酸マグネシウムは輸入に頼っていて高価だったので、国産品をつくる研究を始め、6年ほどかけてその製法を完成させたのです」と、富田製薬五代目社長の富田純弘さんは言う。
明治19(1886)年に政府が日本薬局方(やっきょくほう・医薬品、医療機器の品質などの規格基準書)を制定すると、久三郎がつくった炭酸マグネシウムが合格。これにより需要が増え、利益を得るようになったが、その矢先に工場が全焼し、事業は中止に追い込まれた。
苦汁は、塩田で海水から塩を採取した後に出る溶液で、炭酸マグネシウムを製造するためには大量の苦汁が必要となる。静岡の塩田では採れる量が足りなかったため、久三郎は苦汁を求めて全国各地の塩田へ調査に出た。その結果、鳴門の塩田が最適地と判断し、明治26(1893)年、ここに富田海産塩類製造所を設立し、工場で炭酸マグネシウムと硫酸マグネシウムの生産を開始。品質が高く医薬品メーカーからの引き合いも多くあった。これが、富田製薬の会社としての始まりである。
鳴門の製薬業発展の礎に
「当時、塩田では塩をつくった後の苦汁は捨てていました。久三郎はそれを買い取ったので、鳴門の塩田は栄えていきました。それとともに富田製薬も大きくなっていき、全国から注目されて多くの人が視察に来るようになりました。久三郎は、この事業の発展は国益にかなうという観点から、その技術を公開して、苦汁の利用方法を伝授していきました。これにより、鳴門では製薬会社が増えていきました」(純弘さん)
その後も会社名を富田製薬工場、富田製薬所と変えながら、さまざまな化学品の製造に成功し、戦時下においても操業を続けた。しかし戦後に困難が待ち受けていた。地震や工場火災、台風の被害に加え、取引先の倒産などがあり、経営が苦しくなっていった。
「よほど苦しかったようで、一部の工場も売却しています。そのため、多くの従業員が辞めていきました。それでも会社に残ってくれた従業員が頑張ってくれたおかげで、会社が存続できたのです」
同社の大成長のきっかけになったのが人工腎臓用透析用剤の開発である。同社は1960年代から人工腎臓用透析液の原料を製造していたが、平成9(1997)年に他社に先駆けて粉末透析用剤の量産化を実現した。液体型に比べて保管スペースが少なくて済み、透析液調整作業の省力化も図れるところから、多くの医療現場で採用が進んだ。
現在はこの粉末透析用剤の製造をメインに、医薬品の原料、医薬品添加物など、独自開発した製品を製造・販売している。
第二の柱をつくっていく
「会社は環境に適応しなければ、生き残れません。この先、日本の人口減とともに透析を受ける人の数も減るのは確実です。そのため、今は第二の柱を構築するための研究開発を進めているところです。困難な道のりですが、創業者が何度も失敗しながらも日本初の純国産医薬品を生み出したように、挑戦しながら、従業員と共に苦難も乗り越えていきます」
そう語る純弘さんには、後継者がすでに決まっている。長男の航平さんである。
「会社では社長から直接指示されることはありませんが、社長が取材を受けた記事を読んだり、周りの話を聞いたりする中で、自分も経営に対する哲学や信念をしっかり持ち、それを貫ける人物にならなければと感じています。ただ単に企業の規模を大きくするのではなく、創業者の探究心や周りの人を大事にする姿勢も引き継いでいきたいと思っています」と航平さんは決意のほどを語る。
一方、会社の今後について、純弘さんはこう語る。
「まず第二の柱を早くつくること、そして世界に注目されるスペシャリティー企業として生き残っていくために、世界各地に研究施設を設けて研究者を配置して、そのネットワークを生かして新しいものをつくり上げたいと思っています」
すでに米国ニュージャージー州に拠点を開設して海外市場開拓も進めており、今後のグローバル戦略の推進が、同社の発展のカギを握っている。
プロフィール
社名 : 富田製薬株式会社(とみたせいやく)
所在地 : 徳島県鳴門市瀬戸町明神字丸山85の1
電話 : 088-688-0511
代表者 : 富田純弘 代表取締役
創業 : 明治26(1893)年
従業員 : 約600人(パート含む)
【鳴門商工会議所】
※月刊石垣2022年11月号に掲載された記事です。
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