平成から令和へと元号が代わり、日本の歴史は大きな節目を迎えた。今回は皇室典範で天皇の終身在位が定められてから初の上皇誕生も、注目を集めている。そこで歴史に立ち返り、上皇や天皇の在り方、関係性を読み解くべく、日本中世史を専門とする歴史学者、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんに話を聞いた。
「外圧」にさらされたとき天皇が動き、歴史が変わった
「『万世一系』という言葉があるように、日本が自国の歴史を紡ぐようになってから天皇という存在は、諸説あっても途絶えることなくあり続けました。時に自ら政治を司り、時に切り離され、宗教的な立場が強調されることもありました。天皇は時代とともに在り方や位置付けが大きく変わってきました」
そして今、新天皇が誕生し、同時に生前退位された明仁天皇が上皇となる令和が幕を開けた。
「日常生活では西暦を用いる機会が増えてきていますが、日本には元号があり、元号を用いることはとても意義深く、重要です」 そう切り出した本郷和人さんは、日本の歴史の特性についてこう続けた。
「あるロシア系フランス人の哲学者兼歴史学者は『世界の歴史、人類の成長は日本史を見れば分かる』と言っています。日本は温暖な気候に恵まれ、自然も豊か。外敵の侵略もなく、他国と比較しても大量虐殺のような悲劇が少ない。穏やかに歴史が推移してきた国と位置付けられています。そんな日本において、歴史が変わる要因は何か。それは主に外圧です」
鎌倉時代に起きたモンゴル襲来によって徐々に鎌倉幕府は衰退し、キリスト教と同時期に鉄砲という大量殺戮兵器が伝来したことで、戦国時代が終焉を迎えた。そして幕末の黒船来航によって開国を迫られるなどの事例を挙げ、外圧と歴史変動の関係性を語った。 「中央集権国家としての日本が確立した原点まで時代を遡れば、そこにも外圧があります。663年の白村江の戦いです。唐と新羅の連合軍に攻め込まれた百済を支援した大和王朝は、大敗北を喫します。朝鮮半島での利権を失い、さらには唐がいつ侵攻してくるか分からない状況にさらされる。そこで日本という国の確立に奔走したのが天智天皇、天武天皇、そして持統天皇でした。『天皇』という呼称も、この時期に初めて登場しました」
「大王」から「天皇」への名称変更、内政改革や国防の強化、さらに天皇家と神話とを結びつける『古事記』や『日本書紀』の編纂もこの時期に進められる。中国大陸の脅威を肌で感じつつも、舶来文化を積極的に取り入れ、日本独自の文化が芽吹くのもこのころだ。
「天皇」と「元号」は独立国としての証し
「中国唯一の女帝、武則天に遣唐使を遣わし、日本という国名、天皇という呼称を認めさせ、701年に大宝という元号を掲げています。そして大宝律令を制定し、日本が法治国家であることを国内外にアピールしていくのです」
そして、大王よりも天皇の格が上であることが、歴史上の大きなポイントだと本郷さんは強調する。
「当時は中国王朝とどういう関係を結ぶかが日本をはじめとした関係諸国の外交の鍵でした。朝鮮半島やベトナムの王朝は、中国の時の皇帝から認められて初めて王になりました。元号も中国王朝のものを踏襲していました。その中で、日本には天皇がいて、元号も自国で制定できる。つまり日本が自立した国であるということを決定づけた事柄なのです」
しかし、外圧はいつまでも続くわけではない。外圧の緊張緩和とともに、天皇の在り方も変化していったという。
「唐の衰退していく(時期にあたる)平安時代を見ると明らかです。天皇の政治的権力は藤原氏に移り、天皇と朝廷は国風文化を高度に洗練させていく立場になっていきます。政権を握っていたころは権力闘争が繰り返されましたが、権力を失うことで継承が安定していくのも皮肉なものです。土地は全て天皇のものとする律令制度が、時代とともに形骸化しつつも守られ、荘園という〝私有地化〟が進んでも経済力は失われなかったのも特徴的です。しかし鎌倉時代以降はその財力も弱まり、江戸時代には学問と暦の作成、改元のみが天皇の役割と制限されていきます。しかも明正天皇などの代替わりでは改元されず、800年以上続いた暦の作成も1685年には幕府がつくるようになる。天皇や朝廷は歴史の表舞台から影を潜めますが、幕末の尊皇攘夷思想によって、再び脚光を浴びます。そして、天照大神の子孫という絶大な位置付けは、今も脈々と受け継がれています。今年4月18日、先の天皇、皇后両陛下の在位中の最後の地方訪問先が、伊勢神宮です。このとき、歴代天皇に受け継がれる三種の神器のうち、草薙剣と八尺瓊勾玉を皇室から運ぶ剣璽動座が行われました。そして5月1日に新天皇が三種の神器を践祚した、つまり皇位の象徴が受け継がれたというわけです」
上皇陛下の役割は今後新たに描かれていく
生前退位によって、皇室典範が定められてから初めて「上皇」が誕生するのも、令和の特徴の一つだ。上皇というと院政を展開した白河上皇から鳥羽上皇、後白河上皇までの時代が思い浮かぶが、当時の上皇の在り方とは明らかに異なる。
「上皇陛下がこの先どうされるのか、どうあられるのかは、正直分かりません。天皇だったころも、国民と同じ目線で語りかけ、国民の声に耳を傾けるという新たな天皇像を確立されました。令和への改元直前に『皇室に親しみを持っている』と答えた人が国民全体の76%を占めた(朝日新聞世論調査より)というデータからもそれを読み取ることができます。僕は伝統を重んじ、あるべきものを大切にする国民性からみても、この先も天皇制はあり続け、西暦と元号が併用されていくと思います」
そして自身の歴史学に魅せられた経緯も語りつつ、こう締めくくった。「僕が歴史に興味を持ったのは小学校4年生のころで、両親が奮発して京都と奈良を巡る家族旅行に連れていってくれたのが始まりです。阿修羅像や五部浄像などの仏教美術に魅せられて、古代文化に傾倒していくようになったのです。それが一変したのが大学時代。後に師匠となる石井進さんの著書に、古代の文化よりも戦国時代の文化が優れているという記述を目にしてからです。織豊政権下で升の形、大きさが全国一律となり、統治も経済もスムーズに行われるようになる。この一例からも文化として戦国時代がリードしていると。その衝撃から中世を勉強するようになったのですが、日本の歴史や文化を考える時には赤か白かと安直な二者択一ではなく、複眼的思考が必要だと考えます。歴史上、天皇より上皇の方が格は上ですが、今回の天皇、上皇は決してそうではありません。しかし、プライベートでは父であり、子である。このように事象全体を複眼で捉えることで、天皇制の有無とは異なる次元で、元号、そして天皇や上皇を捉えた方が、自分の中で培われると思います」
本郷和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所 教授
1960年東京都生まれ。83年東京大学文学部卒業、88年同大学大学院単位取得退学、史料編纂所に助手として入所し、『大日本史料』第5編の編纂にあたる。同所助教授を経て、現在、同所教授を務める。石井進氏と五味文彦氏に師事し、日本中世政治史を専門とする。当為(タテマエ、理想論)ではなく実情を把握すべきとし、日本中世の「統治」のありさまに言及する著作が多い。近著に『日本史のツボ』(文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)などがある。
写真・矢口和也
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