男性アイドルグループ「少年隊」の“ニッキ”として知られる錦織一清さん。幼い頃に、ジャニー喜多川氏と一つ屋根の下に暮らし、エンターテインメントのイロハを学んだ。いち早く演出家としての才能を開花させ、現在は演出家と俳優の“二刀流”で演劇界を盛り上げている。
ジャニー氏にエンターテイナーとしての基礎を学ぶ
日活の俳優だった叔父の影響で、幼少時から芝居に興味を持つようになった。生まれは東京の下町、江戸川区。学校では、運動も勉強もよくできたため周囲から一目置かれる存在だった。自ら立ち上げた少年野球チームではキャッチャーを務めた。「野手の動きを見ながらチームを動かすところは舞台演出と似ている。僕に向いていたと思います」と錦織さんは当時を振り返る。
まだ小学生だった錦織さんの才能を発掘し、育成したのはジャニーズ事務所代表取締役社長の故ジャニー喜多川氏だ。ジャニー氏といえば、2011年、「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」としてギネス世界記録にダブル認定された人物だ。そんな氏と当時事務所に設置されていた合宿所で共に暮らし、「ジャニーさんの“セコンド”としてアシストしながらエンターテインメントのイロハを学んだ」という錦織さん。デビュー前から、氏と共にショーを構成・演出し、その才能をいち早く開花させた。今もジャニー氏を第2の父として慕う。
1985年、「少年隊」としてデビューすると、実力派アイドルとして一世を風靡した。
「今でこそジャニーズという言葉がアイドルの代名詞になっていますが、あの人はちっともアイドルをつくろうとしなかった。『YOUたちはどんな人の前に立っても拍手をもらえなきゃいけない』と言い、僕が流行や容姿にばかり関心を示すと叱ってくれました。とにかく芸を磨けと。24時間舞台のことしか考えていないような人です」
現場主義のジャニー氏の計らいで、デビュー前にニューヨークの老舗デパート「Bloomingdaleʼs(ブルーミングデールズ)」でパフォーマンスをする機会が与えられた。観客は言葉も文化も違う買い物客だ。まだ何の芸も極めていない自分に何ができるのだろうか。しかしそんな場面でも、「負けてなるものか!」とガムシャラに歌って踊った負けん気の強さと責任感を思えば少年隊のリーダーに抜擢されたのは必然だったのだろう。
一方で、歌・ダンス・芝居と三拍子そろった実力と人気で演劇界の注目を集め、単独でも数多くの舞台に出演。「自分がどう見えるかではなく、観客に何を伝えるかを常に考えていました」。錦織さんは「テクニック磨き」に、より貪欲になっていった。
つか氏との出会いで次に進む道が決まった
そして、30歳を過ぎた頃、演出家・つかこうへい氏に出会う。
舞台『蒲田行進曲』で、つか作品に初出演した錦織さんは、それまでの常識をことごとく覆されたと話す。「テクニックに頼るな。頭で考えるな」と真っ向から否定されたのだ。
「芝居に限らず、20代後半から30代前半は生意気盛りだし、一番うまくなりたい時期です。僕もミュージカル界の往年のスター、フレッド・アステアやジーン・ケリーの芝居を盗んでやろうとか、ギラついた目で研究していたわけで。一方、つかさんは『役づくり禁止』とか言う。人間は自分をさらけ出すのが難しい生き物です。本能のままだと社会で生きられないですから。だから隠す、取り繕う、自分を演じる。一方、芝居はそもそもが虚像なので取り繕わなくていいですよね。ありのままさらけ出せというのが、つかさんの考え方でした」
雲をつかむような思いで舞台に立ち、喜怒哀楽を本能のままさらけ出した。すると「その役柄が、ありのままの自分だと思えるようになってきたんです」。
つか氏は、細かな演技指導をしなかったという。けれど、酒の席では、“ダメ出し”しかしなかった、と錦織さんはうれしそうに笑う。「僕らに発言権などないですから、ひたすら黙って聞いてました(笑)」 ジャニー氏とつか氏は、一見、正反対のように見える。アメリカ生まれのジャニー氏は西洋の演劇を愛し、つか氏は極東だ。「しかし、演劇にかける情熱は、まるきり同じだった」と錦織さんは力を込める。両者のスピリットを受け継ぐ“ハイブリッド”なエンターテイナーが錦織さんなのだ。
「そもそも僕は映画俳優になりたかった男です。でも、映画の扉は開かなかったようですね。どうしたものかと悩み、30歳を過ぎた頃、帝国劇場の稽古場で、ボーッと椅子に腰掛けていたんです。ふと、なんて居心地が良いんだと思える瞬間があり、もしかしたら、ここが自分の職場かもなって思ったんです。どうしたら観客の想像力をかき立てることができるんだろうとか、考えを巡らす稽古場という空間が僕は世界で一番好きなんです」
演出家として大きな自信を得た「坊っちゃん劇場」
錦織さんは、2018年から2年連続で「坊っちゃん劇場」(愛媛県東温市)のミュージカル作品の演出を手掛けている。「坊っちゃん劇場」は、全国で唯一自主制作のミュージカルを1年間上演し、集客に有利とはいえない四国の地方都市にもかかわらず、06年の開設以来、延べ90万人を動員してきた「奇跡の劇場」として知られる。映画『パッチギ!』などの脚本を手掛けてきた羽原大介氏と、16年に舞台『グレイト・ギャツビー』でタッグを組んだ縁で演出家として錦織さんに声が掛かり、「大役が舞い込んだ」というのが率直な感想だった。ところが、上演された『よろこびのうた』は18年All Aboutミュージカルアワードで『ファミリー・ミュージカル賞』を受賞。「演出家としてこれほどの喜びはありません。演者もスタッフも、そして観客の皆さまも、作品に携わった全員に与えられた賞なのですから」
2作目となる『瀬戸内工進曲』で、前作を超えてほしいという地元の期待を背負い、羽原氏と再挑戦する。舞台は、新居浜市の別子銅山だ。事前に「東洋のマチュピチュ」とも呼ばれる現地を訪れたという錦織さん。眼下に広がる瀬戸内海の眺望とともに、目標達成への覚悟を決めた。
本作は「人は変われる。成長できる」をテーマとした、別子銅山の煙害問題の解決に取り組む親子の挑戦と家族愛、そして切ない恋の物語だ。「演出家ってエゴなんです。自分の世界観を押し付けるのだから」と言いながら、「重箱の隅をつつくような指導はしない」と錦織さん。また、深刻な内容であっても、錦織さんの手にかかれば、笑いあり涙ありの作品に変わることでも知られている。「もちろん、一人でも多くの方に観てもらいたい。でも、僕はどうしたって54歳の感性で演出するわけですから、笑いのセンスもその世代です(笑)。なので、ぜひ、同世代の方に観てもらえればと思っています」
錦織 一清(にしきおり・かずきよ)
演出家/俳優
1965年、東京都生まれ。小学6年でジャニーズ事務所所属。85年、東山紀之、植草克秀と共に「少年隊」としてデビューし、リーダーを務める。翌86年から、毎夏、東京・青山劇場で上演された少年隊主演のオリジナル・ミュージカル・シリーズ『PLAY ZONE(プレゾン)』は、2008年まで23年間続いた演劇界の金字塔。単独でも、1988年、ミュージカル『GOLDEN BOY』主演を皮切りに、数多くの舞台に出演する。99年、舞台『蒲田行進曲』出演を機に、つかこうへい氏の薫陶を受ける。2009年頃から舞台演出を積極的に手掛け、現在、俳優業に加え、演出家として活躍中。
写真・後藤さくら
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