25歳で青森山田高校サッカー部の監督に就任した黒田剛さん。以後、全国高校サッカー選手権の常連校となり、3度の全国制覇を果たす。指導者歴30年で、輩出したJリーガーは60人を超える、高校サッカー界屈指の名将だ。2023年から活躍の場をプロサッカー界に移し、FC町田ゼルビアで指揮を執る。新しい道を選んだ黒田さんを訪ねた。
サッカーが忘れられずホテルマンから教員に転身
一年のうち3分の1が雪で覆われるグラウンド。雪国でのサッカーは、それだけでも条件がかなり不利だ。サッカー不毛の地、そういわれる青森で、全国覇者となる高校サッカー部を育て上げたのが黒田剛さんだ。
北海道札幌市出身の黒田さんは、もともと野球少年でサッカーに夢中になったのは小学校3年生の春休み。友人に誘われ、4月から野球チームに入る間の軽い気持ちで参加すると、瞬く間にのめり込んだ。
「ゴールを決めたときに仲間と喜びを共有できるのがうれしくて。サッカーは野球以上に不確定要素が多く、できないことだらけ なのも、負けず嫌いの性格に火を付けました」と語り、中高、そして大学まで「抜けられなくなった」と笑う。
元来、人の役に立つのが好きな性分と自己分析し、リゾート会社に就職するものの、「学生サッカーの熱量が忘れられない」とわずか3カ月半で退職。教員の道にかじを切り、道立高校の臨時教員兼サッカー部コーチの職を得て、同時に母校の私立高校サッカー部のコーチも務めた。するとわずか8カ月で、1回戦で敗退していた道立高校が試合で勝ち進めるようになり、母校は高校サッカー界の頂点を決める全国高校サッカー選手権(以下、選手権)への出場を果たす。
「指導方法は、選手として培ったキャリアがベースです。学生時代からコーチや監督の話を自分だったらこう話す、あの試合を例に出せばもっと伝わるのに、と分析しながら聞いていた生徒でした」
黒田さんの指導力を高く評価した母校のサッカー部監督から、「指導者を探している私立高校が青森にある」と声を掛けられる。それが青森山田高校だった。
悔しさをバネに努力し勝利をつかみ取る
「当時の青森山田高校のレベルは県のベスト8ぐらいで、校庭も芝ではなく半分が土。グラウンドもきれいな四角ではなく台形で、4カ月間はゴールポストの3分の2が雪に埋もれるという状況でした」
大学付属の中高一貫校で、公立高校のような転勤はないが、無名高では全国から優れた生徒も集まらない。部員数も今でこそ中高合わせて300人を超えるが、当時は20人未満だったという。
「指導実績もプロ経験もない24歳に対し、学校側も受け入れムードではなく、実は面接試験で2回も落ちています。コーチになれても、教員ではなく青森大学の事務局員からのスタートでした。全国大会は夢のまた夢でしたね」 それでも全国トップレベルの指導者たちは、マイクロバスを運転して全国を転戦していると聞くや否や、自ら大型自動車第二種免許を取得する。できることから始めたと語るが、前任の監督が辞め、コーチになった翌年から監督になると、いきなり選手権出場の切符を手にする指導力を発揮した。
「とはいえ、結果は散々の1回戦負け。いかに自分が無能か、経験値のないいら立ちとふがいなさしかありませんでした。監督2年目は県大会の準決勝で敗れて出られず。悔しさで朝まで泣きに泣きました」
この2年を経て黒田さんの指導に熱が入り、生徒たちの生活習慣を含めて見直していく。雪国というデメリットも逆手に取り、雪かきや雪中サッカーで足腰を鍛え、中高一貫のメリットも生かして、優れた中学生部員を高校生部員の練習に加えていった。
「バスの移動距離ですら勝てないのなら、全国に行くなんて無理」と意気込み、ひと夏で7200kmを走行し、四国や九州を何往復もして、強豪校と練習試合を繰り返したこともあった」と笑う。
覚悟には覚悟で応えてプロサッカー界へ
「05年にインターハイで優勝してからマークされ始めて、09年の選手権準優勝を境にベスト16の壁に阻まれました。試合後にロッカールームで『これ以上何をやっていいか分からない』とコーチと話しながら涙を流したこともあります」と黒田さん。自分の指導力では壁は超えられないと、強豪校の指導者らに教えを乞い、Jリーグのキャンプ場に何度も足を運んだ。
「私なりに導いた答えは『組織づくりが肝である』ということ。組織が傾くのはあっと言う間。リーダーは軌道からそれた変化に気付き、軌道修正できる力がないと務まりません。何度も失敗してきたからこそ、危機感を持って対応しています。そして組織マネジメントの一番のポイントが、感情のコントロール。例えば、試合中のミスを私が直接とがめるのではなく、選手たちにどう思ったかを語らせます。チームメートから信頼されない、期待されないことの方がこたえますからね。最後に、ミスした選手にみんなの意見を聞いてどう思ったかを聞けば十分。課題を議論し修正していくことを徹底し、互いにリスペクトし合うこと。これを青森山田高校サッカー部のイズムにしていきました。卒業生が指導役として戻ってきてくれる流れも生まれ、イズムの裾野も広がって、ベスト16の壁も壁ではなくなっていきました」
フィジカルとメンタルの両面を鍛え、26年連続選手権出場という"常勝チーム"をつくり上げた黒田さん。直近の選手権では6年間に5回決勝に進み、22年度のチームでは、各種の全国大会で8回の優勝をつかみとる。まさに無双状態の中、22年にJリーグの町田ゼルビアからオファーが入る。
「これまでいろんなお誘いがありましたが、『監督』としての招聘(しょうへい)は初めてです。その覚悟と現状打破への強い思いが、過去の自分と重なりました。定年まであと13年、安泰の道もありましたが、覚悟には覚悟で応えたい。私を慕って入学してくれた生徒や保護者の方々には申し訳ありませんが、私の挑戦を応援してくれる声も多かったのも確かです。結果を出せなければ次がない世界であることを承知の上で飛び込みました。今まで高校サッカーの現役指導者から直接プロの監督になった例はありません。指導生活30年のキャリアを捨ててでも一サッカー人として、高校指導者の価値向上のためにもやれるだけのことをやってみたい。まずはJ2優勝。選手たち、地域の皆さまとの対話を通し、良い面は伸ばし、悪い面は徹底的に修正する。隙のない勝てるサッカーを目指します」と語る黒田さん。
まずは、選手一人一人と対話し、ファンからもいろいろ教わって、「自分のものさし」をつくっていきたいと意気込む。Jリーグでの采配に注目が高まる。
黒田 剛(くろだ・ごう)
FC町田ゼルビア監督
1970年生まれ。大阪体育大学体育学部卒業後、ホテルマン、公立高校教諭を経て94年に青森山田高校サッカー部コーチ、翌年、監督に就任。以後、全国高校サッカー選手権26回連続出場、3度優勝。高円宮杯JFA U-18サッカーリーグ12年連続残留、2度ファイナルを制する。2022年10月青森山田高校サッカー部監督退任。23年よりFC町田ゼルビアの監督に就任。近著に『常勝チームを作った最強のリーダー学』(エパブリック)がある
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