体操個人総合で、五輪2連覇、国内外40連勝、世界体操競技選手権で世界最多6連覇と、数々の偉業を成し遂げてきた内村航平さん。「世界王者」の名を欲しいままにした。だが、それは天賦の才だけで成し得たものではない。世界一努力し、継続した結果たどり着けた頂点だ。日本初プロ体操選手となり、引退後も体操の普及に取り組む、内村さんの今、これからについて聞いた。
3歳で体操を始めたものの才能が開花したのは高校生
内村航平さんが体操を始めたのは3歳と早い。両親ともに元体操選手で、自宅兼体操教室という恵まれた環境下で育った。
「体操は遊びの一環でした。普段の生活ではやらない動きをする非日常的な感覚が面白くて、親に『見ているときだけ』と言われていたのに、見ていないときもずっと体操をしていました」と笑う。
小学校1年生のときに、同級生が次々できる鉄棒の蹴上がりを、手から血が出るまで練習して、ようやくできたときの感動。それが体操の技を覚える楽しさの原点にあると内村さんは言う。
家の外でも山の上にあった学校の通学路で、立ち入り禁止の急斜面を駆け降りるなど、やんちゃなエピソードは数多い。それでも「どんな遊びやスポーツよりも体操が楽しかった」と言い切る。
世界トップになる人は持って生まれた才能も、親も、育った環境も違う。そう思うかもしれないが、内村さんは小学生で初めて出場した大会で最下位、全国中学校体操競技選手権大会は42位止まりだ。それでも体操に見切りをつけず、「好き」を貫いた。そして、高校受験を控えたある日、長崎から東京の高校へ進学したいと両親に告げる。理由は日本トップの塚原直也選手が所属する朝日生命体操クラブに入るためだ。当時の内村さんの成績では日本代表は夢のまた夢。両親の猛反対を押し切って15歳で上京し、望み通りクラブに入れたものの、来る日も来る日も基礎練習ばかり。それが丸1年続き、いら立ったこともあったという。
だが、高校2年生になる目前、コーチ不在時に中学時代にはできなかった大技を試すと、難なく成功。初出場した全日本ジュニア体操競技選手権大会では全国3位に躍り出た。基礎の大切さを痛感した内村さんは、以後、前人未到の記録を打ち出しても、基礎練習を怠らなかった。
「難度の高い技も習得が早いわけではない」と人の何倍も練習し、昨日と今日の体の違い、動作の違いを言語化できるほど緻密に分析しては、心身両面を鍛えた。「天才」という言葉を好まないのも、「世界一努力した者が世界トップになれる」を体現してきたからだ。
チームマネジメントに向き合って得た金メダル
2008年に日本代表に選ばれてからは、団体での金メダル獲得にも尽力し続けた。そして、16年のリオデジャネイロ五輪で悲願を果たす。
「12年のロンドン五輪に向けた強化合宿の際は、言葉ではなく姿勢で後輩たちを引っ張っていこうとしました。でも、『航平さんは別格』と線を引かれるだけでした。それで、16年のリオに向けて積極的に他の選手たちと交流を図りました。選手一人一人が何に悩み、何を目指しているのか、声を掛けるタイミングや言葉遣いなども細かく対応していきました」
団体といっても強い選手をそろえれば勝てるものではない。これはビジネス面でも共通することかもしれないと、内村さんは続けた。
「大切なのは目標を一つにしたチームの一体感と情報共有です。ミスを一人で抱え込まず、チームで共有して解決策を考えた方がミスを減らしていけます。Aはこう言うけれどBはどう思う? と水を向けて考えさせたこともあります。『個の力』の足し算ではなく、チームが同じ方向を向いて、信頼し合う。そうすれば一緒に戦えるようになるのです。この本質が分かるまでに、試行錯誤を繰り返しました」
「日本のお家芸」の体操を真のメジャースポーツに
個人・団体ではチームリーダーとして世界の頂点に立った内村さんは、さらに日本体操界で自分にできることを考えた。出した答えは、日本初のプロ転向だ。
「体操はオリンピック時には注目されますが、国内ではまだまだマイナースポーツです。男子体操の全6種目を言える人は少なく、平均台は女子体操のみの種目であることも、女子の体操と新体操の違いもあまり認知されていません」
確かに体育の授業で、跳び箱や鉄棒、マットを使ったことはあっても、次第に疎遠になる。
「命懸けで体操に向き合ってきた立場からすれば、これはとても悲しい現状です。体操は全てのスポーツの基本要素が詰まっています。もっと体操の価値を高めたい。自分の経験を伝えていきたい。それがプロ転向の動機です」
自ら動いてマネジメント事務所を探し、練習場所とコーチを確保し、東京2020大会を目指した。度重なるけがやコロナ禍による1年の延長を乗り越え、0.001点差でオリンピックの出場権を勝ち取るが、無念の予選落ち。21年10月、福岡県北九州市で開催された世界体操競技選手権大会を最後に、翌年1月に現役引退を発表する。
「悔いはないです。北九州市は3歳まで暮らしていた地で、そこで現役最後を迎えられたのも感慨深かったです」と振り返る。
同市で22年12月には内村さん主催の体操イベント「体操展~動く芸術~」を開催し、白井健三さんや村上茉愛さんら体操界のレジェンドが集結して、"魅せる体操"で観客を湧かせた。23年3月には宮城県で、プロスケーターの羽生結弦さんとの夢の初共演で話題をさらったのも記憶に新しい。北九州市の栄誉功労の受賞や、長崎県諫早市の「諫早市ふるさと特別大使」になるなど、過去の功績と新たな挑戦が交錯する活躍ぶりだ。
「諫早市の原風景は山。体操で不可欠の足腰の強さは、諫早市の山を駆け回って鍛えられたものです。観光の際は自然を満喫してほしいですし、食べ物はウナギがおすすめです」と笑顔を見せた。
また、今年6月には日本体操協会の理事に就任し、選手とは違う立場で体操に深く関わっていく。
「体操をもっと多くの人に見てもらうためにはどうしたらいいか、仕組みづくりから考えています。正直、僕は演技をしていた側なので、他の選手の演技を見る面白さや、会場とテレビで見る臨場感の違いを把握し切れていないところがあります。そこを掘り下げて、体操の面白さや難しさを伝え、体操をメジャースポーツにしていきたいです」と向上心は尽きない。
体操を軸とした内村さんの新たな挑戦に、終止符はない。
内村 航平(うちむら・こうへい)
【元プロ体操選手】
1989年生まれ。体操競技でオリンピック4大会(北京、ロンドン、リオデジャネイロ、東京)に出場し、個人総合2連覇を含む七つのメダルを獲得(金メダル3、銀メダル4)。国内外40連勝を達成し、「キング」の愛称で知られる。2016年、日本体操界初のプロ選手となり、22年に現役を引退。現在は講演やイベントのプロデュースを通して体操競技普及に取り組む。23年6月より日本体操協会理事に就任予定。近著に『やり続ける力 天才じゃない僕が夢をつかむプロセス30』(KADOKAWA)がある
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