神事として始まった花火
徳島県の東部中央、紀伊水道に面する小松島市に、花火の製造・販売・打ち上げの事業を代々続けている佐賀火工はある。江戸時代に喜八郎が創業したとしているが、実際にいつ、誰が創業したのかはよく分かっていないという。
「うちに残っている秘伝に喜八郎という名前があったので、喜八郎を創業者にしています。おそらく江戸時代の後期です。でも実際には、もっと前からやっていた可能性も十分にあります。というのも、戦国時代末期から徳島を治めていた蜂須賀氏は、所持していた軍用の火薬が古くなると民に分け与え、それが神社などに奉納される吹筒花火のルーツとなったからです。きっと喜八郎の前から続いていたと思います」と、佐賀火工会長の佐賀守さんは言う。
吹筒花火は火薬を詰めた竹筒を立て、筒の先から火の粉が上に勢いよく吹き出す花火で、江戸時代から五穀豊穣(ほうじょう)や家内安全、災難除(よ)けを祈念する神事として行われてきた。今では小松島市の無形民俗文化財にも指定されている。
「うちで打ち上げ花火をつくるようになったのは、残っている記録では昭和2(1927)年です。先日、古いものを整理していたら、香川県琴平町の打ち上げ花火大会で一等賞をもらった賞状が出てきたんです。ですので、少なくともそのころには打ち上げ花火づくりを始めていました」
そういった花火づくりの伝統が江戸時代からある徳島県は全国有数の花火生産地となり、かつては小松島市だけで10社以上も花火を製造する会社があったという。
つくり方も大きく変化
当時、西日本では徳島県以外で花火を製造しているところがなく、同社は四国だけではなく、関西や中国地方からも呼ばれて花火を打ち上げていた。また小松島市でも、昭和9年から「小松島港まつり」が毎年開催され、そこで打ち上げた花火が市民たちの目を楽しませてきた。
「しかし、終戦後の数年間、日本人は火薬を扱うことが禁止され、花火の製造ができないでいました」
また、以前は関西の花火大会に行くことが多かったが、ある年の台風をきっかけに、関西からは手を引くこととなった。
「私が子どもの頃、こちらに台風が来たのですが、徳島側は暴風圏なのに、海を渡った関西側は晴れだったんです。それで、どうしても花火を向こうに持っていかなければならず、漁船を借りて無理して運ぼうとしたら、船が遭難してしまったんです。それで遠いところはもう無理だなと、関西からは手を引きました」
また、花火の火薬も以前とは大きく変わり、花火のつくり方も変わってきている。
「私の親の時代に使っていた火薬は、今では使用禁止になっているぐらい危険なものでした。今の火薬は比較的安全ですが、いずれにしても、花火をつくる従業員とお客さんたちの安全を一番に考えることが重要です。これは今も昔も変わりません」
花火大会から花火ショーに
守さんは次男だったが、家業を継いだ長男の兄が急に亡くなったため、後を継ぐことになった。
「会社勤めをしてから小松島に戻り、本屋をしていたのですが、私が社長になった途端、従業員に小さなミスが続きました。経験のない社長では従業員の士気が違うんですね。そこで、無理のない仕事量だけ引き受けるようにしました。危険な仕事なので、それ以上受けたら事故につながりますから」
守さんは営業に専念してきたが、息子の淳一さんには花火の製造や打ち上げもできるよう、現場に入ってもらった。そして今年3月、守さんは会長になり、淳一さんが社長に就任した。
「今の花火大会は、花火のクオリティーはもちろん、それ以上に打ち上げの際の音楽やレーザー光線とのコラボレーションといった演出部分が重要。皆さん今はスマホで動画撮影をするので、連続で打ち上げられる花火の華やかさが求められ、花火大会というより、インスタ映えする花火ショーになっています」と淳一さんは語る。
花火大会は会場によって自然条件が異なるため、打ち上げの際に注意すべき点も違ってくる。長年その場所で打ち上げてきた経験が、同社の強みになっている。
「大会の担当者が変わると別の打ち上げ業者に変更されてしまうこともありますが、結局はまたうちに戻ってきてくれます。それが、祖父や父が引き継いできた当社の歴史的な信頼なのだと思います」
コロナ禍で中止になっていた花火大会が、今年は各地で開催される。佐賀火工の花火もまた、多くの人の目を楽しませていく。
プロフィール
社名 : 佐賀火工株式会社(さがかこう)
所在地 : 徳島県小松島市田野町字月ノ輪2-2
電話 : 0885-32-3333
HP : http://www.sagakakou.com/
代表者 : 佐賀守 代表取締役会長
創業 : 江戸時代後期
従業員 : 25人(パート含む)
【小松島商工会議所】
※月刊石垣2023年7月号に掲載された記事です。
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