帰国子女で慶應義塾大学卒の才女。それなら通訳ができるのも当然と思ったら大間違い。会議通訳者の橋本美穂さんは、努力を重ね、話し手の会話の速度や発声の強弱、感情や間の取り方まで察し、機転を利かせて的確に伝えるすべを手にした。時にはタレントの繰り出す造語ですら英訳する、「飛訳」を武器に卓越した技術力と表現力で〝言葉の壁〟を瞬時に貫く。
ふなっしーやピコ太郎の通訳で沸き立った記者会見
橋本美穂さんは、フリーランスの会議通訳者だ。ミュージシャンやタレント、アスリートの通訳も手掛けるが、あくまでも本業はビジネス通訳。会議やセミナー、プレゼンテーションなどさまざまなビジネスシーンにその姿はある。時には数千億円単位の交渉の場に立ち合うなど、一つの誤訳も許されない緊張感ある会議を、これまでいくつもこなしてきた。
通訳はいわゆる〝裏方〟の仕事だが、橋本さん自身にスポットが当たることも多い。TBS系列のドキュメンタリー番組「情熱大陸」の出演をはじめ、各メディアで紹介され、2023年4月には著書も出版する活躍ぶりだ。こうした〝表〟に立つきっかけになったのが、千葉県船橋市の非公認キャラクター・ふなっしーや、「PPAP」が世界的なヒットとなったピコ太郎の日本外国特派員協会での記者会見の通訳だ。 「イレギュラーなお仕事でした」と橋本さんは笑うが、ふなっしーやピコ太郎の独特なギャグやジョークを巧妙に訳し、会場を笑いの渦に巻き込んだ。日本語をそのまま英語にしても決して笑いは起きない。直訳、説明、意訳、そして橋本さん独自の「飛訳」を瞬時に使い分け、ウイットに富んだ通訳だったからこそ会場が沸いた。
橋本さんは今や通訳者歴17年の超売れっ子で、月に平均35の案件をこなす。だが、初めから通訳者を目指していたわけではない。
父親が商社マンで海外転勤が多く、橋本さん自身も小学生時代を中心に、約6年間米国で過ごした。このときに橋本さんの英語力のベースは培われ、持ち前の社交的で物おじしない性格は、日米間の異なる環境で磨かれていく。 「米国は、一人一人『違う』のが当たり前。自分は何者なのか、何をしたいのかを声に出さないと伝わらない環境です。忘れもしないのが、まだ英語もおぼつかないスクール初日にトイレに行きたくても場所も、なんて聞いたらいいかも分からなかったこと。コミュニケーション力を上げて自力で生きていくしかないのだと幼心にも自覚しました。物事を相対的に捉えて判断する力も、米国の環境で培われていったと思います」 だが、得意の語学を仕事に生かそうと考えたことはない。大学卒業後は日本の大手企業に入社した。
安請け合いした通訳でまさかの大失敗
「子どもの頃から国外を飛び回る父の土産話を聞くのが大好きでした。その影響で、私の人生のキーワードは『冒険心』。父のように大きな舞台で活躍したい。そのためには大企業という大海原に飛び込んで、スケールの大きな仕事をしたい。そう思ったのです」
有言実行で、大企業の本社の総合職でキャリアを積んでいった橋本さん。ある時、上司から英語が堪能なことを理由に、社内会議の通訳を頼まれる。橋本さんも二つ返事をしたものの迎えた当日、思うように通訳できない。 「すっごく悔しかったです。私はゲームも勉強も、一度興味を持ったものはとことんやる完璧主義者。通訳もこの時にスイッチが入って、うまくできなかったのは技術不足ではないかと考え、夜間の通訳者養成学校に通うことにしました」
これが趣味のレベルではない。文字通り通訳のプロを養成する学校で、そこは英語力の高い受講生でも根を上げて1、2割しか進級できないというハードルの高さだった。だが、橋本さんはやり切る。 「ここで通訳時の頭の使い方を学びました。聞くに30%、読むに20%、話すに30%、残り20%で話した結果を観察する、と分けるのです。話を聴きながら全く関係ないテキストを読んで両方を理解するトレーニングなど、発声・発音に始まりさまざまな通訳スキルを身に付けさせてもらいました」
約3年間通い、その後、会社がノー残業を推奨すると、空いた時間で翻訳コンテストに応募して見事優勝。賞金5万円を獲得し、「報酬がもらえる喜びを知って、味を占めちゃいました」と、通訳・翻訳のエージェンシーへの登録を思い付く。だが、そのエージェンシーの社長から、通訳者になることを強く勧められ、橋本さんの心は大きく揺れた。
ビジネスの成功に向かって“心通った”通訳で伴走する
「それまで会社を辞めるなんて1ミリも考えたことがありませんでした。でも通訳の仕事は成果報酬で、1回1回が実力主義の真剣勝負。私の中の冒険心がかき立てられる要素満載でした」と目を輝かせる。
そして06年、意を決して退職し、1年間日本コカ・コーラ社の社内通訳を務めた後に独立する。 「通訳のお仕事をいただく中で次第に気付いていったのは、言葉を正確に伝えるだけでは不十分であるということ。例えば、面白い日本語のテレビCMのプレゼンテーションを、正確に伝えても海外の方は何が面白いのか全く分かりません。それに英語にない日本語もしかりです。『鬼に金棒』を直訳しても鬼になじみのない国の方はピンと来ません」
通訳の現場では迷ったり、長々と説明したりする時間はない。そこで橋本さんは前述した「飛訳」で「鬼に金棒」を“Popeye on spinach”(ほうれん草を食べたポパイ)とした。英語にない言葉ならつくる。徹底した下準備とともに、飛訳も橋本さんの持ち味として注目されていった。 「通訳は、異文化や価値観の違いなども考慮する必要があります。例えば、日本語の『検討します』など、含みのある言葉をそのまま英訳しただけでは『ありがとう!では、いつお返事をいただけますか?』と期待されてしまいます。必ずしも言葉通りに訳すわけではなく、真意を伝えることが大切です」
そう語る橋本さんが通訳で大事にしているのが正確性、スピード、そして表現力だ。 「相手の心に響く言葉を、聞き取りやすい音声で伝えること。次なるビジネスのアクションにつながるような言葉を届けることを目指しています」
会話のテンポや間、声の抑揚や表情をくみ取り、ときにはそれらを補って通訳する橋本さん。心通った通訳だからこそ、聞き手の心を動かし「スッと頭に入る」「感情まで伝わってくる」と評価されるのかもしれない。通訳者として身だしなみや立ち居振る舞い、言葉遣いなど〝通訳〟以外も万全を期す。「甘いものを控えるなど、体調管理にも気を付けています」とトップアスリートのごとく、第一人者として自己研鑽(けんさん)に妥協はない。
橋本 美穂(はしもと・みほ)
会議通訳者
1975年米国生まれ。幼少期をカリフォルニア州で過ごす。慶應義塾大学卒業後、キヤノンに入社。総合職としてのキャリアを積む。仕事と並行して通訳者養成学校夜間コースに通い、入社9年目に転職を決意。2006年に退職し、日本コカ・コーラの社内通訳を1年間務め、その後独立。会議通訳の得意分野は金融、IT、マーケティングなどで担当した案件は6000以上になる。ふなっしーやピコ太郎の記者会見の通訳で話題に。著書に『英語にないなら作っちゃえ!』(朝日出版社)がある
写真・後藤さくら
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